肥後平野の野戦
薩軍奮戦すれど
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薩軍、肥後平野に戦線構築

阿蘇・九州山地の西山麓に移動した薩軍は、肥後平野で政府軍を迎え撃ち、熊本へ再進攻攻する構えもみせていた。

 4月14日・熊本城、4月15日鳥巣〜植木〜三岳等の戦線からの撤退は一時混乱したが、地理に精通した池辺吉十郎率いる熊本隊よる誘導のもと、政府軍が更なる動きを見せる前に新たな防衛線構築を目指した。

 薩軍はこの頃から組織の変更を始めている。これまでの大隊長(幹部)は本営付となり、各隊は小隊長の有力者が指揮し各地の戦線を分担。
 北寄りから大津隊:野村忍助、長嶺隊:貴島清、保田窪隊:中島健彦、健軍隊:河野圭一郎、御船隊:坂元仲平隊。本営・木山(現・益城町)を囲むようにして肥後平野に展開。17日には布陣が完了した。
  この時薩軍総兵力は党薩諸隊をあわせ約8,000。(*1)

 政府軍も薩軍の動きに合わせ展開。北から片川瀬:第3旅団、竹迫:第1旅団、松雲院町:第2旅団、立田山:第5旅団、熊本城下東部:熊本鎮台、川尻:別動第1旅団、隈庄:別動第2旅団、堅志田:別動第3旅団。これら8個旅団で薩軍を取り囲む様に配備された。さらに熊本城には第4旅団(予備)が控え、八代では別動第4旅団が人吉から攻める薩軍に対抗していた。(*2)

 政府軍は開戦以来の増援により、10個旅団・総兵力約30,000。ここに関ヶ原以来最大の会戦(野戦)が肥後平野で繰り広げらることになる。


(*1)御船は4月12日に政府軍が制圧したが、熊本城解放後に一旦放棄。その後薩軍が無血占領。4
    月17日に大山巌少将率いる第3旅団の兵薬600が御船攻略を目指したが、撃退されていた。
(*2)衝背軍が熊本城へ進軍する4月12日。人吉から再度八代攻略をねらっていた薩軍・別府晋介・
    辺見十郎の隊が、衝背軍の隙を突いて八代(古麓)を攻略。政府軍は17日に奪回。その後も対峙
    していた。




城東会戦

 4月20日午前5時。
 政府軍は全線で薩軍へ攻撃を開始。肥後平野(熊本平野)全域に及ぶ大会戦が始まった。

 健軍の河野圭一郎隊は19日から熊本鎮台・別働第五旅団からの攻撃受けていたが、始め前線の延岡隊は苦戦したが奮戦し河野隊が逆襲。熊本鎮台は別動第1旅団の応援で戦線を維持出来る状態に追い込まれ、20日になっても薩軍優位のままであった。

 保田窪の中島健彦隊は第5旅団右翼を攻撃。同旅団は一時火力で薩軍を圧倒。薩軍の先陣を突破し突入したものの、薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れを起こ後退。中島隊は巧みに鎮台との連絡を絶ち戦況を優勢に維持。

 長嶺の貴島清隊は中島隊と連携して第5旅団の左翼を抜刀隊で急襲。突破して熊本城へ突入する勢いをみせ、政府軍は急ぎ熊本城の予備隊・第4旅団を投入。しかし熊本城と第五旅団は20日夜になっても連絡は絶たれたままだった。

 大津で迎え撃つ野村忍助隊は、政府軍3個旅団を引きつけ20日日没頃まで対等に戦った。
  今はのどかな田園風景の熊本平野・大津付近。両軍はこ
  こで激戦を繰り広げた。遙かに見えるは阿蘇外輪山


 薩軍優勢・または対等な北部に対し、南部の御船(*1)を守る坂元仲平隊は、既に17日から別働第3旅団と戦っていたが、19日から3個旅団に攻められ各地で後退。

 20日夜には木山の薩軍本営は御船から敗走して来る薩軍兵で混乱。御船を突破した政府軍が迫った。
さらに夜半には大津の野村忍助隊も戦線を支えきれず後退。

 本営の桐野利秋は木山に踏みとどまり熊本を奪還死守する決意でいたが、野村忍助は木山へ後退し阿蘇から豊後口を堅めて再起を進言。しかし桐野は浜町(現・矢部町)へ後退を決めた。

 本営が後退した為、優勢だった大津・長嶺・保田窪・健軍の薩軍各隊もに後退。(*2) 

 日本史上屈指の規模で行われた野戦、後に城東会戦と呼ばれたこの戦いは2日あまりで勝敗が決した。(*3)
明治10年4月20日 城東会戦概図
(*1)政府軍の攻撃に敗走した御船の薩軍は、御船川・若宮渕に行く手を阻まれ、逃げまどう薩兵を政
  府軍が狙撃。川が血の色に染まったとも云われてる。御船川が改修される前は、川底に弾丸が食
  い込んだ岩が見つかったという。

(*2)20日夜貴島・中島らは熊本城へ本格的に攻め込む為、木山に伝令をやったが、すでに西郷・桐野らは浜町へ移動した後だった。
(*3)城東会戦での官軍の死傷者は700名以上。3月20日・田原坂・総攻撃を上回る被害を出している。




球磨盆地・人吉へ

4月21日
 真夜中から政府軍各旅団は木山へ進軍、薩軍各隊は政府軍を小競り合いで攪乱しながら緑川上流の浜町(現・矢部町)に集結。西郷以下薩軍幹部・各隊長は今後の方針を検討・・・

★球磨盆地・人吉(ひとよし)を拠点とする。
 「西郷の護衛」で決起した薩軍であったが、ここまでの長期戦を想定しておらず、全勢力をもって行軍。その為鹿児島(薩摩)は根拠地(兵站地)として整備しておらず(*1)、肥後平野を追われて頼れる地は、辺見・別府隊が八代攻略の根拠地にしている球磨盆地・人吉しかなった。
 そして険しい九州山地に囲まれた球磨盆地を生かして立て籠もり戦力を蓄え、機を見て薩摩・大隅・日向・豊後へ勢力を伸ばし再起をはかる・・・・

★軍編成を抜本的に改める。
 これままで薩軍は小隊を基本として10個大隊を主戦力としていた。これを中隊を基本として9個大隊とした。今までの大隊長は本営付となり、各大隊はそれまでの小隊長で有望な者に任せた(これらは城東会戦直前から移行が始まっていた)。
 大隊名も番号ではなく“破竹・鵬翼・常山・雷撃・千城・行進・正義・振武・奇兵”といった勇ましい名前が付けられた。

 しかし開戦当時に比べて半減した兵力の中で大隊といっても、兵100名程度の中隊がいくつか集合しただけのものであり兵不足は明らか。さらに武器弾薬が思うように行き渡ってはおらず、抜本的な建て直しにはならなかった。

 4月22日
 西郷隆盛以下、村田新八・池上四郎ら率いる約2000の兵は、胡麻山越(国見峠)・椎葉・不土野峠経由で球磨盆地・人吉へむかうルートを取った。 

 政府軍を引きつけて浜町に残っていた桐野利秋が率いる隊は五家荘(現・泉村)から那須越(椎矢峠)〜不土野峠を経て、球磨盆地へ向かうルートをとった。
 いずれも九州山地で最も険しい山岳部の行軍である。

 山又山、土坂峻絶恰も土累を昇るが如く、一歩一歩より高く、所謂後人前人を戴いて登るが如し・・・

 熊本隊・佐々友房の「戦袍日誌」には、胡麻山越(国見峠)の様子が記されている。

 4月下旬とはいえ、標高1500m級の峰が連なる九州山地で薩軍は、厳しい寒さと雨に悩まされた。山道は地理に詳しい熊本隊・地元民などが先導したが、今とは比べものにならない険さである。
 そこを数千名の兵が武器・物資を輸送しながらの行動は至難の業。兵は行軍中1人米三升・餅を食料として携行し、各所の小さな山村で宿泊している。西郷や幹部は屋敷に泊まれても多勢の一般兵は野宿だったかも知れないだろう・・・・これは難儀だ。

 特に熊本隊士族は、政府軍による虐待を恐れて家族を連れて行軍していた為、より悲惨を極めた。佐々の記録では雨風にさらされ、
泣き叫ぶ女房・子供達の姿に、涙誘う気持ち
を書き留めている。近代が始まった日本ではあったが、また封建時代の意識が根強く残っていたのだ。
薩 軍 の 椎 葉 越 え
 薩軍は秘境・椎葉を抜けて球磨盆地・人吉をめざした。平野部を政府軍に制圧されている以上、困難な山岳行軍しかなかった。

4月22日 浜町を出発。
4月23日 尾野尻(現・清和村)・黒峰山を越え鞍岡(現・宮崎県五ヶ瀬村)・金光寺に宿泊。
4月24日 胡麻山(国見峠)を越えて仲塔(現椎葉村)着。黒木国次郎方宿泊。
4月25日 小崎(現・椎葉村)着。那須政見方宿泊。
4月26日 不土野峠を越え熊本県・江代(現・水上村)着、早田松義方へ宿泊。
4月27日 桐野隊江代着
4月28日 江代にて戦略会議
4月29日 永国寺(現・人吉市)着。
宿泊はいずれも西郷の宿泊先

椎葉・鶴富屋敷

 4月29日
 厳しい山中を越えて西郷らの隊は28日に江代での戦略会議の後、球磨盆地・人吉城下へ到着。西間村(現・人吉市土手町)・永国寺に本営として進駐した。
 桐野も球磨盆地に入ったが、人吉には行かず江代(現・水上村)にとどまった。

 西郷は桐野に対して人吉へ来る様に再三要請したが、固持して江代に留まった。“薩軍の総帥”ともいえる桐野利秋が球磨盆地の北東・江代にとどまったのは、追跡して来る政府軍への備えとも、これまでの失敗に責任を感じて西郷に合わす顔がなく、避けていたとも云われている。
 現在において真実はわからないが、このあたりから西郷と桐野の間に少しずづ不協和音が始まったとも言われている。


 政府軍の薩軍追撃は完全に後手に回り失敗した。城東会戦で薩軍を九州山地に追い込みながら、広範囲に配備した各旅団の指揮・配置・命令伝達に混乱を起こし、決定的な掃討戦が打てないまま、薩軍の攪乱にもあって好機を逸してしまった。(*1)

 それでも人吉に集結する薩軍の動きを掴むと、人吉攻略に別動第2旅団(司令官・山田顕義少将)をあて、八代の別動第4旅団を統合。他の師団も薩軍の行動阻止の準備に取りかかった。

(*1)それでも鹿児島へ物資を人吉までへ調達する様に指示を送っている。
(*2)政府軍が演習を含め、これほどの規模で行動したのは初めての体験ではなかったろうか?




 浜町(矢部)は御船と並ぶ肥後−日向を結ぶ街道町の一つで、古くから往来でにぎわった。
 4月21日。城東会戦で敗れ、肥後平野から追われた薩軍は、さらに内陸の浜町に全軍を集結。軍議で「人吉で再起を図る」を決め、22日から順に九州山地・椎葉を経て行軍していった。
 薩軍が本営を置き軍議を開いたのは、造酒屋の「備前屋」とも、その隣にあった「御成りの間」とも言われている。備前屋は通潤酒造となり、隣にある御成りの間は民家に替わっている。
 浜町には熊本県庁の公金が戦乱を避けて保管されていたとされ、渡辺現・和田弥一らが自宅へ運んで守っていたが薩軍に発見され、赤禿ノ井手塘で斬られたといわれている。


矢部(浜町)の位置

西南戦争ツーリングレポート
(8の続き)4/17(曇)
 うどんこぼれて波乱!?の田原坂を後に、一路2台のバイクは熊本を南下。椎葉の前に昨日寄れなかった熊本城へ向かう。ご存知の通り、熊本城は西南戦争直前に焼けて、今は復元された建物が大半。天守閣は鉄筋コンクリートで製で内部は資料館なんですが、石垣や一部の建物は昔のまま。所々に弾痕のような傷がみえる。約120年たってもやはり残るのか? それともたんなる窪み? 来る前は「薩軍はもっと攻めれば陥落せたのでは・・・・?」とも思った二人ではあったが、堅箇な石垣と城郭をまじまじと見て、「これでは薩軍といえども無理だろうなぁ・・・」、怖い顔の篠原国幹の指揮でも無理だったろうか。 恐るべし加藤清正!
 そんなこんなで、曲がりくねった熊本の城下町の道を抜けて、二台のバイクは一路椎葉を目指します。空は今にも泣き出しそうな曇天・・・雨が先か、到着が先か。知るは天のみ。 
v(^_^;☆\(^^;)<おおげさな〜                      (10へつづく・・・・)


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