×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



西南戦争<特別編2

日本がおこなった「征韓」は、
          大きな禍根を残す
西南戦争 特別編2  江華島事件


朝鮮問題の経緯

  朝鮮をはじめ周辺諸国への関心は幕末期から存在し、朝鮮への征韓は明治元年12月、長州藩・木戸孝允による建議で版籍奉還と共に征韓断行が提出されている。(*1)

 これは近代国家として歩むとき、欧米列強の植民地政策に習おうとする考えから来ている。日本が植民地を得るには、当時日本より弱小と見られていた朝鮮を対象に考えたのだ。

 現代から見れば、近代国家=征韓・植民地獲得という考えは、乱暴に尽きる。しかし欧米のアジア進出(特にロシア)に危機を感じていた日本では“列強を真似て国を強くすることが近代国家への道”という意識が起きていた。(*2)
江戸時代の日本・朝鮮をめぐる国際関係
江戸時代の日本・朝鮮をめぐる国際関係
 ただし、この征韓建議は誕生間もない明治政府にとって実行出来る余力もなく、実現はしなかった。

  これまでの日本と朝鮮との関係は、徳川将軍家と朝鮮李王家の私的親交と、対島藩・宗氏の交易で続けられていたが、明治維新・廃藩置県によりその関係は途絶えた。
 明治政府は朝鮮との関係構築について、日本周辺の安定化の為にも重要だと考えていたが、両国には大き隔たりあった。

 日本は朝鮮との関係を欧米にならって、条約による外交関係を望んだ。朝鮮は清国の鎖国政策に追随しており独自の開国はできず、欧米列強の開国要求も拒否していた。さらに李王家の実権を握る国王の父・大院君(李是応)は保守攘夷主義者で、友好関係があった徳川将軍家を倒し西欧文明を受け入れた明治政府を嫌っていたので、なおのこと関係改善は進まなかった。(*3)


(*1)木戸の征韓論は、大村益次郎に「直接利益はない・・」といった主旨の書簡を送っている。長州派の
  勢力拡大を図るための策であるとも言われ、継続して議論していない事から、実行を目指したも
  のではなかったとみられている。
(*2)岩倉具視は明治2年2月、「海外万国(欧米列強)は、皆我の公敵である・・・・」という主旨の意見書
  を出している。この考え方は幕末期からある「欧米列強進出を警戒した考えが基本ではある。
  「もしロシアが南下してきた場合、満州・朝鮮を植民地にしてでも対抗する・・・・」というシナリ
  オも考えられてはいたが、具体的実行策までは論じてられてはいない。
(*3)朝鮮国王・高宗は大院君とは違って、柔軟な見識を持っていたという。朝鮮国内では、日本の幕
  末期と同じく、様々な考えがあり「大院君の保守攘夷主義=朝鮮の総意」と言う訳ではなかった。


西郷案を征韓論だとつぶし・・・・

 明治6年(1873)、朝鮮・釜山にあった日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、日本を非難する事件が起こった。
 これを契機として日本では士族を中心に「朝鮮の無礼をとがめよ!」という武力解決を望む征韓論が出始めた。

 それに対し、政府は正院閣議で、参議・西郷隆盛が自ら大使となって外交で解決する西郷案(遣韓論)を可決。
 しかし「明治6年の政変」で西郷案は征韓だとされて無期限延期され事実上否決。これで朝鮮問題は頓挫。

 一方、朝鮮でも大院君が失脚。王妃の一族・閔氏が実権を握った。
明治初期の日本・朝鮮をめぐる国際関係
明治初期の日本・朝鮮をめぐる国際関係
 明治7年(1874)4月。台湾へ漂流した日本人が地元民に殺害される事件が置き、日本政府は報復で台湾出兵を断行し。清は日本の強行姿勢に驚いて、朝鮮に対日政策緩和を命じる。そして同年9月。釜山で両国の公式交渉開始された。

 ところが明治8年(1975)、朝鮮国差遣理事官の外務少丞・森山茂が釜山に赴任し、朝鮮側の代表・朴斉実らと会談が始まった。しかし朝鮮側の意思は一定せず、また“汽船で渡海そ洋服を着ている事・・・・”等、儀礼的な面で激しく非難され、交渉がストップしてしまった。森山は打開の為、軍艦派遣による威嚇を外務卿・寺島宗則へ上申。

 朝鮮との関係を欧米より先に開いて有利にしておきたい政府は、沿岸測量を名目に軍艦を朝鮮各地へ派遣する事を決めた。(*1)
 様々な経過があったとはいえ、西郷の案を征韓論(*1)としてつぶしながら、政府は節操無く征韓を実行することに・・・・。


(*1)ロシアとの国境を定める千島樺太交換条約など、ロシアとの問題がひとまず安定し、朝鮮に対し
  て強い対応をとれるようになった背景もあった。
(*2)西郷が遣韓論を唱える中で、「交渉が失敗すれば戦争も矢も得ない・・・・」と言ったことが本心は
  征韓を考えていたと受け取られ、征韓論と誤解されたとも言われている。


江華島事件を起こす

 明治政府は英米から征韓(軍事威嚇)による朝鮮開国の支持を取り付け、明治8年(1975)、5月には予告なしに日本軍艦・雲揚を始めとする3隻が朝鮮・釜山(プサン)に入港。湾内に碇泊して発砲演習を行い、朝鮮東海岸をへて帰国。
 そして9月、雲揚は再び朝鮮西海岸の航路探索と無許可の沿海測量を行わせ、挑発行動を始めた。

 明治8年(1875)9月19日、雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として兵を乗せたボートを漢江支流・運河を遡航し始めたとき 江華島草芝鎮の砲台が発砲。
 雲揚は兵の救援で報復し砲台を攻撃。翌日江華島の南・済物浦対岸の永宗島永宗鎮を砲撃し破壊。

 明治政府は朝鮮へ全権使節派遣し江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉させることを決め、欧米公使に通告。山縣陸軍卿に下関で陸軍出動準備をに待機させ、万一にそなえた。
朝鮮半島・江華島の位置
江華島の位置
 明治9年(1876)2月、明治政府は朝鮮に修好条約交渉開始を認めさせ、特命弁理大臣・黒田清隆(参議・陸軍中将)と副弁理大臣・井上馨(元老院議官)の派遣。
 2月10日江華島に上陸し11日より江華府で交渉が開始された。日本側は13条にわたる条約案を提示し10日以内の回答を求める。
 交渉団はペリーが日本来航の際におこなった「砲艦外交」をまね、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた。(*1)

 最恵国条款は日本側草案にはあったが,朝鮮側が日本以外と条約締結・通商(貿易)の意思がないとしたため取り下げた。通商に関する事項は条約調印後の交渉とされ、輸出入とも無税とする日本案がそのまま受け入れられた。
 公使・領事・館員・その家族などの内地旅行、開港地区域設定などをめぐり交渉は難航し朝鮮側は関税賦課については発言のないまま期限切れで調印された。

 朝鮮国内では条約締結に根強い反対もあった。しかし日本側の圧力、朝鮮側のその場しのぎ的思考。宗主国・清国も平和解決を望んだため、内容に不平等な面はあっても受け入れざるを得ない状況であった。(*2)


(*1)欧米の開国要求に激しく抵抗した朝鮮が、日本の条約を短期の交渉で受け入れたのは、日本が隣
  国であり、破談の際は武力行使をとりやすいため、内容の次第より一時しのぎにひとまず受け入
  れ当面の危機回避をしたのではないか?と云われている。また朝鮮側に不利な条約である認識が
  あまりなかった面もうかがえ、必ずしも露骨な脅しで強引調印させたとはいえない面はある。

(*2)日本が朝鮮を対等・自主の国として認めたことは一見対等条約に見えるが、清国との宗主関係を
  朝鮮自らに切らせ、日本の行動をしやりやすくした事。日本人の領事裁判権や条規変革を禁じ期
  限定めず永久継続にした点など、欧米が日本に求めた条約と同じように、日本側に都合よい条項
  を朝鮮側に検討させる余裕与えずに調印させた事は、不平等条約の色彩が濃い。


江華島へ上陸する日本軍
江華島へ上陸する日本軍「明治太平記より」

 軍艦・雲 揚

  木造機帆軍艦。慶応4年イギリスで建造。長州藩が購入。
 排水量245トン、機関出力106馬力。明治4年日本海軍に編入。
  佐賀の乱、台湾出兵などに従軍。明治8年「江華島事件」に派遣。
 明治9年に和歌山で座礁。


アジアの協同より脱亜入欧・・・

 一連の事件で明治政府の手法はおおむね支持を得た。日本が朝鮮を開国できた背景には、英米仏など欧米列強が朝鮮を日本の影響下にいれて、ロシア南下政策への“防波堤”に利用しようとする思惑もあった。

 幕末のころ、狭い尊皇攘夷精神から次第に世界情勢を知り、新しい日本を夢見た勝海舟や西郷隆盛・坂本龍馬ら幕末の志士たちは欧米の進出に対し、近代制度や技術を取り入れながらアジア(日・朝・清)が協同で当たるべきとの東亜連帯策をもっていた。そのため内戦や近隣国との対立は避けるべきとの思いがあった。徳川氏(幕府)が薩長(新政府)と全面戦争を避けたのも、その構想が影響したと思われる。
 一方で欧米に追随し植民地を得て国を富ませ強い軍を興す・・・・という脱亜入欧・富国強兵策。これのひとつが征韓だ。

 朝鮮側の頑迷な姿勢にも問題はあったが、日本は朝鮮と同じ様な混乱・苦労を幕末期に経験しながらそれを回顧研究せず、アジアに先駈けて近代国家への改革を成功させた事が近隣国への優越感をうみ、多くの者が政府の征韓を支持してまった。

  当時鹿児島に隠棲していた西郷隆盛は、江華島事件を批判している。要約すると・・・

 ・測量はまず朝鮮の許可を得ておこなうべきである。
 ・発砲した事情もたださず、安易に戦端を開いた事は遺憾、
  天理において恥ずべき所為である。

 “許しも得ずそして武力を使うなど、もってのほか!”といった意味の事を述べている。

 西郷が考えた朝鮮との交渉とは、朝鮮側が納得する古式に則った烏帽子直垂の武士の正装。使節は軍艦ではなく商船で渡海するものであったと言われている。この構想に武力はみられない。

 鎖国中の朝鮮は世界情勢を把握して対応する意識・体制が日本に比べ整っていなかった。そこへ西欧のシステムを日本が持ち込んでも拒絶されるのは必至。西郷は両国がかつて採ってきた伝統流儀に沿って朝鮮に余裕をもたせ、冷静になれる状況で話し合おうとしていたと思れる。

 西欧型交渉が絶対ではない事を、西郷は理解していたのだろう。
西郷 隆盛 肖像
明治6年の政変後、参議と近衛都督を辞職。鹿児島へ帰郷した西郷は、政治活動に関わらず隠棲していた。
これは自らを利用して決起しようとする士族の思惑を絶つためだったと言われている。
 その前例として西郷は政府参議のころ、清と対等な立場での「日清修好条約」の批准交渉を進め、完全ではないものの締結している。これこそ西郷が目指したアジア協同の第一歩。そして朝鮮とも対等な立場での関係構築をめざしたのだ・・・・・・。

 それなのに政府要人たち(欧米使節派遣派・長州派等)は、自分たちの勢力拡大や、実績をあげていた留守政府参議の追い出しという目先の事に走り、西郷案を「征韓論」として非難しながら欧米列強の思惑に乗り、征韓をおこなってしまった・・・・・

 鹿児島帰郷後、政治への関わりは避けていた西郷だが、この事件は批判した。

 西郷は幕末維新において、交渉を重んじた武人であった。戦いとなっても、話し合う窓口は残しておく。そして相手が原則さえ受け入れてくれたならば、どんな要求でも受け入れて事を成そうとする姿勢を貫いた。時にはどちらが勝ったのか分からないくらい低姿勢であったという。
 もしそんな西郷が交渉をおこなっていたら、朝鮮とは対等な関係で開国・協同し、植民地化や併合などの強引な荒療治をせずに列強と対峙ができて、アジアの歴史は大きく変わっていたのかも知れない。
 歴史に「・・・・たら」「・・・・れば」はないと言うが・・・・。

 江華島事件あたりから第二次世界大戦の破局まで、日本の大陸拡張政策は続く。現在まで尾を引く朝鮮半島と日本の諸問題の根は、この江華島事件あたりから始まっていったのではないのだろうか?



 日本と朝鮮との関係を、「日本が頑迷な朝鮮を開国し保護・併合したからこそ、欧米の植民地にはならなかった・・・・」、「日本の朝鮮開国・後の併合は、時代や当時の国際情勢からしかたない事だった・・・・」「国と国とが交渉によって行った事だから違法ではない・・・」と簡単または感情的にまとめ、反対意見や検証を許さない立場の人たちがいる。

 確かに日本と朝鮮半島には様々な問題がある。日本と韓国とが国交回復の際、国際情勢や経済を優先し棚上げしてきた諸問題がここに来て再燃している。
 韓国・北朝鮮では政治・内政問題から国民に目を逸らすため、過去と現在を混同し日本を過剰批判。誤認情報まで事実として主張する傾向がある。これは良くないことだ。
 日本でも戦前体制・政策を否定する立場から、韓国・朝鮮の主張をただ受け入れ謝罪すれば良しとする思考を、反戦平和という反論しずらい考えにまぎれて通しがちである。

 歴史は時の勢いや状況によって思がけない展開をすることがある。また心ならずも選択せざる得ない場合もある。簡単に日本だけを悪者扱いする事はできないし、してはいけない。それは歴史の事実までねじ曲げてしまう恐れがあるからだ。

 韓国・北朝鮮等の行きすぎた主張を正す姿勢は大切だ。しかしだからといって朝鮮半島の人たちが、様々な圧力の前に日本の要求を受け入れざる得なかった事。国名を消され日本国民とされながらも歴然とあった社会的格差・差別・・・・。それらを簡単に否定してナショナリズムを過剰に煽り、非難・侮蔑。有利な事をあげて対抗する事ばかりが、正しい歴史の見方・日本としての主張なのだろうか?


 交渉を第一に考えた西郷の姿勢は、約130年たった今でも、国際関係の大前提であることに違いはない。しかしいつも独善で強行な姿勢がこれを壊し混乱を起こす。

 日本と朝鮮半島の問題は、どちらが正しいのか?悪いか?に固執し非難と謝罪するだけではなく、歴史を冷静に掘り下げ、両国に何が欠けていたのかを知り、未来への反面教師にする事が大切ではないだろうか。

 まず平和理に交渉しようとした西郷隆盛の思いを現代の人達はよく知ってほしい。隣国との対等・冷静な関係が最も基本的な国際関係。隣どうしが感情的に罵り合ってばかりいても何も生まれない。


雲揚艦兵士朝鮮江華島之図・錦絵(戦いの様子を忠実に描いたものではありません)
西南戦争の部屋TOP
風色倶楽部INDEX