歴史の舞台は
     雨降る田原坂



両軍連日の激戦

 政府軍と薩軍の壮絶な激戦は7日を数えていた。こまで田原坂一帯は3月4日、5日、10日と雨が降っている。春先のまだ冷える厳しい環境での戦いであった。

 3月11日。
 政府軍参軍・山県有朋中将は、政府軍征討軍本営を南関から高瀬にすすめた。(*1)
 政府軍の戦略は、熊本城救援のため薩軍の防衛戦突破にある。そのため軍を主力と別働隊にわけ、主力は田原坂・吉次峠の突破。別働隊は山鹿の薩軍・桐野隊の動きを封じ込め、牽制に努めていた。

  一方迎え撃つ薩軍は。田原坂〜吉次峠の地形を存分に利用。重厚な胸壁・保累で防衛線を構築し、熊本との連絡を遮断。激しい銃撃と抜刀白兵戦をおこない、物量・兵員力で優位な政府軍を撃退している。
 薩軍のはげしい攻撃に、政府軍主力隊は田原坂の正面正面突破は困難と悟り、西側斜面(中久保〜七本)からの突破と横平山奪取に切り替えた。

 3月11日の 政府軍戦死者173名、12日・13日は不明。薩軍の守りは堅く、戦局は動かなかった。


(*1)木葉にある政府軍本営は、第1第2旅団(主力隊)本営。




政府軍、抜刀隊を投入

 政府軍は薩軍の白兵抜刀攻撃に対抗するため、 剣に自信のある士族出身の兵卒50名を選抜。抜刀隊を組織した。

 抜刀隊は3月9日横平山に投入された。 激しい斬り込みを敢行し、薩軍を撃退。一旦は奪取したが、抜刀隊は13人戦死・36名が負傷し壊滅している。

 3月13日。
  南関・征討軍本営では、士族出身の警視隊300名から約100名を選抜、新たに警視抜刀隊を結成。さらに東京警視庁で選抜された警部・巡査約900名が司令官・大浦兼武
(*1)のもと、警視・抜刀隊として田原坂に到着した。

 東京で結成された警視・抜刀隊は主に旧幕臣・東北佐幕諸藩元藩士で構成され、戊辰の役(明治維新の戦い)を生き残った歴戦の猛者ぞい。多くの警部・巡査達は「戊辰の仇!!」 と、敵愾心を燃やしていたという

 3月14日。
 朝6時、政府軍は田原坂攻撃を開始。歩兵隊は二股よりの援護の砲撃と警視・抜刀隊の護衛を受けて進軍。抜刀隊は薩軍の抜刀攻撃を圧倒して田原坂の保累をいくつかは占領したが、歩兵隊の援護が追いつかず、薩軍の反撃に遭い二股へ後退。横平山占領も薩軍・熊本隊の猛攻に維持できず、撤退した。
戦地の食問題
 連日の戦いで両軍は間近で対峙していた。
 特に柿木台場では、両軍保累の距離はほんのわずかで銃を向き合わせていた。
 ある時、薩軍兵が政府軍兵士へ向けて呼びかけた。
「このごろ非常に疲労したから少し
 休息しては如何か?」
 政府軍兵は「賛成だ」と答え、対して薩軍兵は、
「官軍は酒あり餅あり羨ましむ
  べし。少しモチを恵まないか」と言って来たので、政府軍の兵が保累へ餅を投げてやると
 「ありがとう」と答えた。
  という笑い話の様なエピソートが伝わっている。

 政府軍は高瀬で兵の食事供給を行っていた。初め握り飯を用意していたが作るのが追いつかず、餅に切り替え、毎日12石(約1800kg)の餅を供給している。

 薩軍に関しては詳細不明だが、植木などから供給していたとみられている。しかし物資の補給体制が追いつかないままの戦いで、すべての兵に満足な食事を供給するのは無理であったろう。
 薩軍の兵は“空腹”とも戦っていたのだ。

 この日の政府軍の戦いは戦局を覆すものではなかったが、警視抜刀隊が薩軍と対等に戦えることを証明して政府軍の志気を高め、後になって「抜刀隊の歌」が作られた。
 この日の戦死者、政府軍・321名。薩軍は不明。

 3月15日。
 この日も政府軍は田原坂西斜面と横平山奪取を中心に、田原坂正面・吉次峠を牽制しながら、早朝4時から攻撃は始まった。
 田原坂での激戦は依然薩軍優位ではあったが、横平山では薩軍・熊本隊のが守る防衛戦を抜刀隊を先頭に突撃を幾度も敢行。攻防は壮絶を極めたが、政府軍が圧倒し橋頭堡を築く。
 政府軍は薩軍防衛戦を切り崩す事に成功した。

 この日の戦死者、政府軍・224名。薩軍・死傷者約200名。

 3月16日。
 政府軍は戦線整理のため休戦日とした。

 3月17日。
 午前10時を期して、政府軍は田原坂西斜面・正面からの攻撃を中心に、二股・横平山からの支援砲撃の元、抜刀隊が歩兵隊を護衛しながら突撃。薩軍の丘陵上からの銃撃と抜刀攻撃に互角に渡り合い、あと一歩までせまったが薩軍防衛戦は崩せず一旦退却。午後3時から再び攻めこんだが、田原坂は破れなかった。
 この日の戦死者、政府軍224名・薩軍不明。
明治10年3月1日1〜19日・田原坂・吉次峠戦況概図
3/11〜19・田原坂・吉次峠戦況概図
 3月4日以来の激戦で、政府軍の戦死者は約2000名 にのぼり、高瀬・木葉の病院に収容された傷痍兵も2000名を超えていた。
  これは北熊本にいる政府軍の約5分の1にのぼる数である。田原坂・吉次峠の薩軍が5000ほどの兵力とみられているから、その与えた被害の大きさがわかる。

 この日、宮中から高崎侍従長が天皇の勅諭を奉じて高瀬の征討軍本営に到着。恩賜の酒饌をもって連日の労をねぎらい、従軍人・軍属の俸給増加を発表した。(*2)


(*1)大浦兼武:薩摩・宮之城生まれ。盈進館に学び、明治維新の戦いでは奥羽征討に従軍。新政府に
    出仕し、東京警視庁大警視・川路利良のもとで、治安維持を進め、西南戦争では警視抜刀隊を率
    いて従軍。のち山県有朋の官僚として頭角をあらわし、第2次山県内閣組閣の際に警視総監とな
  る。第1次桂内閣で逓信大臣、第2次桂内閣で農商務臣、第3次桂内閣で内務大臣、第2次大隈内
  閣で農商務大臣を歴任した。
(*2)征討総督有栖川宮熾仁親王ヘ勅諭(明治10年3月7日):卿征討総督ノ任ヲ以テ陸海軍ヲ指揮シ
  画策進討能ク其職ヲ尽ス 朕其労ヲ慰シ賜フニ酒饌ヲ以テス尚黽勉将士ヲ率ヰ励シ速ニ平定ノ功
  ヲ奏セヨ。


菜 種 梅 雨 の 激 戦
 田原坂の戦い17日間の戦闘のうち、6日間は雨が降っている。この雨で前込め式の旧式銃が多かった薩軍は、火薬が濡れて銃砲撃が思うようにできず抜刀攻撃に頼ったが、和服の兵士が多かったため濡れた袴は動きを鈍らせ悩ませた。
 それでも田原坂を死守したのだから、その苦労は並大抵ではなかっただろう。

  当時郵便報知新聞の記者・犬養毅は、「薩軍に困るもの三つあり、一に雨、二に赤帽(近衛兵か警視・抜刀隊)、三つに大砲・・・・・」と、当時の様子を伝えている。




田原坂防衛線、破られる!!

 3月18日。
 政府軍主力隊本営では旅団長・野津少将・三好少将、参謀・長野津鑑大佐、高瀬征討本営から大山巌少将(西郷隆盛の従兄弟)などによる幕僚会議が開かれ、再度作戦会議と意思統一がはかられた。

 連日の攻撃に戦果が挙がらず損害も甚大なのは。

 ・薩軍が優れた工兵能力をもち。地形を存分に活用した防衛線を構築していること。
 ・一兵たりとも死をも恐れず、勇猛果敢に戦うこと。

   ・・・・等にある

 しかしこのまま長引けば、いかに頑強な熊本城も兵糧がつき、戦いそのものが無に帰してしまう。そのためにも一刻も突破しなければならない。

 ただ兵は連日連戦で疲労困憊しているため、19日は休養として、3月20日は早朝から大挙して総攻撃決行する事を決め、全軍に伝えた。
 この日の戦死者、政府軍・薩軍共に不明。3月19日は休戦日。

 この日は昨夜からの豪雨が朝になってもやまず、田原坂一帯は霧につつまれていた。
 この日の政府軍全攻撃隊は19中隊・予備隊23中隊という3月4日以来で最大の兵力で挑んでいる。

 午後5時、攻撃主力隊は激しい雨と霧に紛れ、二股から谷を渡り、田原坂西斜面へ接近。
 午前6時、未だ止まぬ雨の中、二股・横平山の砲兵陣地から田原坂一帯にかつてない大砲撃を開始。

 猛烈な砲撃が止むと同時に主力隊は七本のみに攻撃主眼を置いて、密集一斉突撃!

 薩軍は猛砲撃と豪雨により応戦が遅れた。
 さらに七本を守るのは昨夜遅くに到着したばかりの党薩士族隊・高鍋隊で、状況が把握できないまま攻撃を受け潰走。

「・・・・全軍坂の上に近づくを待ちて大呼して薩累へ迫り、両軍はここを天下分け目の戦として猛闘、銃砲の響山野を震動し、砲煙は山霧に和して、一寸先を弁せず、伏屍路を塞ぎ、壕水為めに、紅いを呈し悲壮この上もなし・・・・」

 と当時の記録にある。

 政府軍の作戦は、これまでの攻撃隊による制圧型をやめ、隊の役割を分担し3隊に分けた。
3/20田原坂・吉次峠の戦況概図
 先頭隊は薩軍突破・植木進撃のみをおこない、続く次の隊は薩軍の追撃を阻み、その次の隊は援護として詰める。 もし前の隊が敗れた際は、すぐ次の隊が援護・交代する手はずを考えていた。

 七本への攻撃に呼応して、境木の田原坂正面隊(本隊)も一斉攻撃を開始。田原坂の薩軍は2面攻撃を受けて混乱。
 午前10時頃、ついに薩軍は支え切れず各隊は各個に東の谷へ下り、植木方面へ敗走。ここに鉄壁の田原坂防衛線は崩れ去った。
 七本を突破した政府軍主力隊の一部は、そのまま一気に田原坂を南に下り、植木まで進撃したが、向坂で薩軍に阻まれて進軍は止った。

  政府軍総攻撃が成功したのは、その兵力と物量差が大きかったが、吉次峠の存在も見逃せない。
 吉次峠攻撃隊は連日薩軍を釘付けにしていたが、20日は総攻撃の始まる前から高瀬からの増援と共に、吉次峠の薩軍へ牽制攻撃を開始。
 常に薩軍の攻撃を正面から受けて立ち引かない戦法を通し、釘付けにした。これによって政府軍主力は田原坂攻撃に専念出来たのである。
 役目を果たした政府軍の損害も大きく指揮する駒井大尉は重傷を負った後死亡した。(*1)

 激闘17日。両軍は累々たる屍の山を築き、ついに田原坂の戦いは大きく動いた。
 以下は当時、戦場の様子を伝えた伝えた記録の一部である、

「天下分け目の田原坂の戦場では死骸は保累の際に枕をならべ、死骸の山を築き、狼狽、目も当てられず、往来の樹木は、十八昼夜の砲の砲弾にあい悉く枝をうち折られ、農家は焼かれ、器物建物も蜂の巣のように打ちむかれ、鳥飛で下りず、人目して語らずという戦場荒野の風景を呈した・・・」

 緑豊かな丘陵であった田原坂は、連日の砲火で山容が一変。

 3月20日の政府軍の戦死者は495名。 薩軍・不明。田原坂で戦死した小隊長は30隊中11名であったという記録もりあり(*2)、人的消耗は甚大であったことが推測が出来る。

 田原坂の薩軍は敗れた。これによって田原坂〜山鹿を守る桐野隊も、政府軍が植木から背後へ侵入するのを警戒し、隈府(菊池)まで後退。
 薩軍本隊も各隊の混乱を素早く収拾。翌日から早くも防衛線を有明海から三ノ岳〜吉次峠〜植木〜隈府まで構築。 熊本への道を遮断した。
 敗れたとはいえ浮き足立たす、第二戦線を構築する薩軍の統率力・工兵力の高さは、見事としか言い様がない。
田原坂の保累(現在の田原坂資料館付近)
 田原坂薩軍の保累。竹やわらであんだ土嚢を積み上げ作られている。
 左の弾痕が残る倉は、田原坂資料館の一部として、写真を元に復元さ
 れている。
3月20日直後の田原坂
  戦い直後の田原坂。木々がなぎ倒されている。
  道沿いに立つ電柱は明治8年開設した電信線。田原坂突破を京都の
  大本営へ即座に伝らえた。
田 原 坂 と 報 道
 西南戦争の開戦直後、東京の各新聞社は、記者を派遣している。しかし大半は大本営のある京都までで、政府発表の情報をもとにした報道にとどまった。
 実際に戦地まで行ったのは、東京日日新聞・福地源一郎、久保田貫一、南波正康と郵便報知新聞・犬養毅だけといわれている。
 戦地へ行った東京日日新聞の福地源一郎は山県有朋と親交があり、西郷に対する降伏勧告状を起草したといわれている。福地が政府軍本営から送った戦報採録は3月23日から東京日日新聞に連載、4月6日、明治天皇に拝謁。田原坂の戦いを宮中で説明している。

 郵便報知新聞の犬養毅は、熊本県令事務取扱石井省一郎から熊本県小用係という辞令を受けて最前線に入り、熊本城入城まで野津少将の第1旅団に従軍。前線で兵士とともに夜営して攻撃にも参加したという。
 犬飼は当時23歳。後に内閣総理大臣となり、五.一五事件で暗殺された。

 ちなみに西南戦争を描いた錦絵の大半は東京まで伝わった情報や記者の話を元に、絵師が想像で描いたもの。



(*1)吉次峠のほか、山鹿の桐野隊を釘付けにした、三浦将率いる第3旅団の存在も見逃せない.
(*2)小隊長戦死者には党薩士族隊の戦死者は含まれていない。



抜 刀 隊 の 歌
 政府軍はこの戦争を、火器と物量・兵員・情報差で圧倒できるはずだった。ところが薩軍の抜刀戦法は政府軍を苦しめ、戦果は上がらなかった。
 示現流で鍛えた鹿児島士族の斬り込み白兵戦は、機関銃のない当時は有効で、政府軍がいくら射撃を繰り返しても、巧みに間隙を縫って斬り込んで来るため、農民出身者が多い政府軍兵士では太刀打ち出来ず、散々にやられた。
 政府軍は劣性を対抗すべく抜刀隊を組織する。当初は政府軍主力隊から選抜したものであったが、のち東京警視庁・士族出身の警部・巡査を中心とした警視隊で組織。これがのち抜刀隊(警視抜刀隊)と呼ばれるようになった。
 抜刀隊の中には戊辰役(明治維新の戦い)を生き抜いた猛者も多く、中でも元幕臣・佐幕派東北諸藩元藩士達は敵として戦った鹿児島士族には敵愾心を持っていたという(ただしあくまで口伝情報である)。部隊は投入されると、政府軍歩兵を護衛して薩軍の抜刀攻撃に対等それ以上に戦い、田原坂突破の原動力となって貢献した。

 抜刀隊の歌は、明治18年7月、鹿鳴館で発表された。歌詞は一番から六番まである。作詞者の外山正一は東京帝国大学教授。「抜刀隊の歌」として[新体詩抄]に発表した詩に、フランス人の陸軍軍楽隊教師・シャルル・ルルーが作曲したと言われている。明治35年、陸軍分列行進曲として採用。
抜刀隊を描いた錦絵(一部)




抜刀隊の歌・歌詞とメロディー



 田原坂・三の坂を抜けたところに田原坂公園がある。入口にある楠は、西南戦争をくぐり抜けた“生き証人”である。
 楠の傍には民謡・田原坂に唄われる「馬上の美少年像」がある。薩軍の防衛陣地となったこの一帯は、17日間の戦いで修羅場と化した。それから約120年・・・。修羅場は公園となって、西南戦争での両軍全戦死者約14000人の名が刻まれた慰霊碑がある。


田原坂の位置
 現在の田原坂は桜・ツツジの名所として知られ、特に春訪れる人でにぎわう。田原坂の壮絶な戦いの事を直接知るものは田原坂資料館ぐらいだが、田原坂沿いに今でも薩軍兵が潜んでいそうな空気が漂う。
●田原坂資料館
 
開館時間:午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
 入館料:個人一般 210円  小・中学生 100円
 休館日:月曜日、祝祭日の翌日、12月29日〜1月3日

西南戦争ツーリングレポート6

(5の続き)4/16(晴れのち曇)
 ぶいーんと、外輪山を駆け下り、豊肥線沿いに走る2台のバイク。ところが植木まで来たとき、satounoのアルティシアがRブレーキトラブル。急遽予定変更で熊本市内のバイク屋へ。
 なんとか修理を終えて、熊本城へむかうものの、すでにお城
は閉門。しかたないので加藤神社など周辺を散策。あっちこっちに石垣には、弾の痕のようなくぼみが今でもあるんですね。
 西南戦争最大の“生き証人”は、今までもどっしりと熊本に 腰を据えていました。(天守閣は復元ですけど・・・)