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薩軍、田原坂を
守り抜く




政府軍、主攻を田原坂へ


3月5日
 昨日の戦いで敗れた政府軍は、この日も田原坂・吉次峠の薩軍防衛陣地を攻めた。
 しかし田原坂の薩軍は昨日に増して堅い防衛戦を堅持。吉次峠でも熊本隊が保塁を増やして守りを固めていた。
 
 このとき横平山を守る薩軍守備隊(4番大隊5番小隊)は、横平山に近づく政府軍を迎撃。隊長の永山休二は足に傷を負っていたため、大きな釜のふたに乗り、兵に担がせて指揮したという武勇伝がある。
 結局この日も政府軍はさしたる戦果は上げられず、56名の戦死者を出ている。

3月6日
 早朝。吉次峠攻撃支隊を指揮していた野津道貫大佐は、津田正芳少佐に吉次峠の指揮を任せて、長谷川第一連隊長と共に木葉の主力隊本営へ赴いた。

 野津大佐は、主力隊を指揮する第1旅団長・野津鎮臣少将、第2旅団長・三好重臣少将らに作戦変更を進言。

 政府軍・主力隊は、田原坂突破を第一に作戦変更を決定。吉次峠方面に牽制の部隊を残し、大半の部隊を田原坂への攻撃に向けた。
3月6日・田原坂戦況概図
 攻撃は田原坂正面、二俣から田原坂西側斜面、田原坂東斜面の三面攻撃が始められた。
 正面を攻める近衛・第14連隊を中心に攻め込んだが、薩軍の反撃は激しく、政府軍の隊が薩軍保塁・胸壁・塹壕に肉薄・突入しても、ことごとく撃退された。

 「・・・・官軍(政府軍)の勇卒(勇敢な兵士)敵塁に突入奮闘する者必ず敵刃下に倒れ、徒に飛んで火に入る夏の虫の感があった」
と、記述する文献もある。
 二俣からの攻撃は、近衛第一連隊が谷をくだり木葉川を越え、田原坂・中久保の保塁に迫ったが、10m手前で、薩軍の抜刀攻撃に遭い、戦死者の遺体を回収することも出来ぬまま苦戦・退却した。

 午後6時、政府軍は勇卒(屈強な兵士)40名で選抜隊を編成。本田中尉の指揮のもと船底の薩軍陣地奪取に向かう。
 選抜隊は夜陰にまぎれて接近し、不意を突き突撃。突然の攻撃に薩軍は撤退。選抜隊は火を掲げて一旦は勝利を報じたが、薩軍は抜刀攻撃を繰り返して陣地を奪回。政府軍を二俣へ撃退した。

 兵員・物資面で劣性にもかかわらず薩軍の優勢は、地の利だけではなく、銃撃と抜刀攻撃の連携の良さと練度にあった。 
 薩軍の抜刀攻撃は銃撃戦の間に茂みの中を巧みに接近。にわかに起って斬り込む奇襲攻撃で、その神出鬼没さは政府軍を悩ませた。さらに大半の兵が剣術に慣れた旧武士であるた剣に強く志気も高い。
肉親・友・知人と戦う戦場
 西南戦争当時、政府軍には維新以来薩摩出身者が多く、親族・親兄弟・知人など身近な者同士が戦場で敵味方として相まみえる事があった。
 薩軍の兵が「わいども
(*)」と叫ぶと政府軍の兵は聞き覚えのある声だったので、「わいども」と答えて接近したら、友と親であったという。
 田原坂では肉親・友が相争ったのはザラにあった。

          (*)「おまえたち」の意味
 一方の政府軍兵卒(一般兵)は、徴兵による旧農民・町人の平民が多く、抜刀白兵には不慣れで実戦は初めての者が多かった。このため銃撃で一旦みかけの制圧はできても、薩軍の抜刀攻撃に押され、将校が命令・叱咤しても、すぐ覆されてしまう。
 西南戦争では近代兵器が威力を発揮したものの、機関銃がまだないこの時代において、田原坂のような繁みの多い丘陵では、抜刀攻撃はかなり有効であった。

 この日より、政府軍は薩軍の抜刀攻撃へ対抗するため、各隊より射撃の名手を選抜、別道狙撃隊を編成して対抗策を講じ始める。
 この日に政府軍戦死者99名。薩軍不明。

(*1)薩軍の記録は武勇伝や心情的な記録文献は多いものの、詳細な数値記録は少ない。



薩軍奮戦の中で・・・

3月7日
 政府軍主力隊は、田原坂正面の薩軍防備が地形の問題もあり堅く、突破は困難と判断。ここは牽制を主とし、田原坂西斜面、中久保方面を主攻として展開を開始。攻撃編成は、先鋒3中隊、本体7中隊、直援隊4中隊、予備隊2中隊、本営に1中隊をもって二俣から木葉川を渡り、田原坂西斜面、主に中久保付近へ一斉攻撃を加えた。

 吉次方面を守る熊本隊は政府軍の動き察知。佐々隊・長城隊が横平山を下って政府軍側面を攻撃。突かれた政府軍は混乱し、田原坂の薩軍陣地までわずか50mまで迫ったものの苦戦。

 薩軍は常に田原坂丘陵の高い位置から政府軍の動きがみえるため、臨機応変に攻撃を加えた。
 この日は終夜両軍入り乱れての乱戦で、政府軍は259名の戦死者をだした。

 薩軍戦死者については、これまでも詳細な資料が無く、不明であるが、かなりの死傷者が出ていると思われる。

 強い薩軍ではあったが、厳しい環境であった。
 薩軍は速攻で熊本城を攻略する事を主眼においていたたため、補給体制が不十分なまま進軍。とりわけ弾丸の補給は乏しく、占領地で鍋・釜を徴収し溶かして製造したり、農民を雇って戦場で弾を拾わせたという話も伝わっている。

 それでも政府軍相手に存分戦えるのだから、兵の志気、そして指揮と防衛陣地の工兵能力の高さは絶賛して良いだろう。
3月7日〜10日の田原坂・吉次峠戦況概図
明治10年の物価・賃金
 薩軍の一般兵はわらじを使用していた。当時のわらじの価格は一足2銭5厘。ちなみに政府軍の軍夫は1日昼夜1円、女性40銭。
 高瀬会戦で政府軍兵士輸送に活躍した人力車は、2人がけで1日3円。

3月8日
 この日も政府軍は昨日と同じく、田原坂西斜面の攻撃を続行したが、薩軍の反撃は凄まじく、数メートル前進するのがやっと。151名の戦死者をだした。

3月9日
 田原坂西面から突破を成功させたい政府軍ではあったが、連日横平山方面からの攻撃に悩まされていた。
 横平山は吉次峠へ続く山地の一角で、政府軍が占領する二股はこの山麓に当たる。ここを押さえると田原坂攻撃隊側面の危険が無くなると同時に、薩軍防衛戦を分断でき、突破の大きな足がかりにもなる。政府軍はこの日の明け方から、横平山奪取と田原坂の攻撃にかかり、両方の攻防は夜まで続く。
 午後6時ごろ、政府軍は横平山の手前、五郎山から薩軍陣地の背後へ迂回して回り込んで挟撃。薩軍保塁を3ヶ所陥落させ、ついに横平山へ達した。
 薩軍の反撃も激しく、政府軍は横平山だけで90名余りの死傷者をだしている。以後両軍による横平山の一取一奪は連日続き、政府軍が完全に制圧出来るのは、抜刀隊(*1)を編成した3月15日ごろである。

  田原坂正面の戦線では、両軍の距離わずか20mまで接近しても、依然薩軍優勢であった。特に政府軍の後続・増援部隊は、初めて実戦にのぞむ隊が多く、薩軍に圧されて、戦線維持がやっとの状態が続く。
 3月4日以来、不眠不休で昼夜戦って来た両軍の兵は、この頃になると疲労の色が濃くなる。戦いの合間を惜しんで眠る者。食事もかまわず眠る者、銃弾が飛び交う中でも保塁・胸壁によりかかって熟睡する者もあったという。
 3月9日の政府軍戦死者182名。薩軍不明。 翌日3月10日は記録によると、休戦日となっている。(*2)

(*1)抜刀隊についての詳細は次回で詳細。
(*2)休戦日は両軍合意の取り決めか、政府軍の一方的なものかは詳細不明。



田原坂戦之図錦絵 丘を登って攻めようとする政府軍、上から迎え撃つ薩軍との激戦の様子が描かれている。右手奥、黒い軍服で赤旗を振って指揮するのは桐野利秋と記されてされている。桐野は山鹿方面を担当しており、田原坂で前線指揮していたとは考えにくい。また薩軍兵の髷頭や鎧姿など誤解・誇張した描写も多い。他の錦絵では薩軍側兵士や、幹部が鎧甲冑姿で描かれたものもある。
これらの錦絵は、絵師が東京で新聞・新聞記者等(大半の記者は戦地取材していいない)から得た情報を元に、想像でを描いたものである。これが西南戦争に対して誤った印象を植え付ける一因にもなった。
                            (絵画内容と絵画価値とは関係ありません)


 政府軍・薩軍が田原坂と並んで重要視したのが吉次峠。薩軍側の防衛拠点となった。峠の標高は約250メートル。高さこそさほどではないが、薩軍・熊本隊はここに長大堅固な胸壁と保塁・塹壕を構築。政府軍と壮絶な戦闘を繰り広げ、いつしか“地獄峠”と呼ばれるようなった。
 薩軍に加わった熊本の士族隊は、高瀬会戦以後この地を守りつづけ、3月20日に田原坂が突破されてもなお死守。4月1日まで踏みとどまった。
 現在の吉次峠周辺はミカン・スイカなどの栽培が盛んな地域。今では壮絶な戦いがあったとは信じられないのどかな丘陵地帯。地中から当時の弾丸が掘り出されることもあるという。 

熊本隊の佐々友房は吉次峠の戦いを漢詩にしている。
吉 次 峠 戦

君不見吉次険険於城
突兀摩空路崢エ
煙籠高瀬川辺水
風捲三嶽峯上旌
一朝伝警笑相待
忽聞千軍万馬声
硝煙為雲弾為雨
壮士一命鴻毛軽
吶喊声和巨砲響
山叫谷吼乾坤轟
砲声絶処松声寂
一輪皎月照陣営
吉次峠の戦い

君見ずや吉次の険は城よりも険
突兀(とっこつ)空を摩して 路崢エ(そうこう)
煙は籠む 高瀬川辺の水
風は捲く三の嶽(だけ) 峯上の旌(はた)
一朝警を伝え 笑って相待てば
忽ち聞く 千軍万馬の声
硝煙雲と為り 弾は雨と為る
壮士の一命 鴻毛より軽し
吶喊(とっかん)の声は 巨砲に和して響き
山叫び 谷は吼え 乾坤轟く
砲声絶ゆる処 松声寂(しず)かなり
一輪の皎月(こうげつ) 陣営を照らす


吉次峠の位置

西南戦争ツーリングレポート
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(4の続き)4/16(晴れのち曇)
 星座を訪れてやっさんと話し込むsatouno&うひたつ氏。気がついたら小一時間もいて、やっさんも心配(後日談)。2人のツーリングは本当に走らない。(^_^;)
 やがてやっさんに見送られて、くじゅうを出発。ところでsatounoは、このあと所用で再び九州へ来る事になり、星座にやってきます。(詳しくは二輪具新聞の部屋Vol.17参照)
ところでやまなみハイウェイの大半はくじゅう山系を走っているって、意外と知られてないとおもう。くじゅうは阿蘇の有名さに比べて、すこし地味に扱われがち。ライダーの中には走りやすい道なので別府から阿蘇まで一気に走ってしまう人が多い。信号もあまりないし。でも雄大な飯田高原の草原。くじゅう火山群。硫黄山の噴気。阿蘇とはまたちがった意味でのスケールがある。

 阿蘇の大峰望でお昼になる。確か二人とも麺類だったと思う。この日は天気はよいものの、風がきつくて、阿蘇外輪山にそった眺めのよい道も走るのが大変。satounoより軽いジェベルのうひたつ氏はもっと大変だったろう。
 やがて、吸い込まれるように駐車場に入ってとまる。そこが目的地・二重峠だ。 つづら坂という言葉がピッタリの坂道が外輪内側を登って二重峠でピークになる。
かつての豊後街道。外輪山をこえて豊後(大分県)と肥後・熊本を結んでいた。田原坂と同じく、わざと険しいルートを採っているのでしょう。(6へ続く)
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