歴史の舞台は 田原坂へ!! |
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田原坂の攻防 |
明治10年3月4日。野津少将・三好少将ひきいる政府・主力軍、第1・第2旅団約15000は、田原坂・吉次峠を突破する攻撃に入った。 2個旅団は高瀬から田原坂方面へ進軍。木葉山麓の薩軍を駆逐した後3方面にわかれ、薩軍が守る田原坂・一の坂、その東側の豊岡、木葉川沿い・田原坂西側・船底から攻め、遊撃隊は戦況に応じて両隊の攻撃の応援する体勢に動いた。 |
山口少佐率いる近衛第1連隊第1大隊は、鈴麦を占領して豊岡方面へ攻めこんだが、大平からの薩軍の部隊に側面と背後を突かれて大迫大尉・外崎中尉ら戦死者を多数だして苦戦。 一の坂を攻める青山大尉が率いる第14連隊は、一の坂を進軍。境木からの援護砲撃のもと、最初の保累を陥落させ、田原坂を一気に登らんとした。 薩軍は塹壕や横穴に隠れて砲撃に耐えながら、政府軍が来襲すると、 「高きから射撃し、弾は雨と散り、あられと降り、進む者は必ず傷つき、退く者、必ず倒れる・・・・」 と記録にある様な銃撃を浴びせ、政府軍を足止めし続けたた。 午後3時ごろ、戦局が好転しない中で野津少将は岡野中佐共に木葉の本営から境木まで来て督戦。自ら酒を汲み兵士を激励したが、薩軍の勢いを覆すことは出来なかった。 この後激しい雨にみまわれ、薩軍の反撃も弱まったかにみえたので、野津少将の一喝のもと、政府軍各隊は進撃ラッパを合図に一斉突撃を敢行。一の坂では約200メートルの距離から薩軍に砲撃を浴びせて薩軍保塁に迫ったが、薩軍は銃撃に加え、抜刀白兵戦(刀による斬り込み)を巧みにおこない、政府軍を撃退。 結局、政府軍は田原坂一の坂・豊岡・船底への攻撃も薩軍の激しい反撃で保塁にとりつくこともできないいまま、終わっている。 敗れた政府軍であったが、田原戦いの間に田原丘陵の西、谷を隔てた丘陵地・二股台地を占領した。 |
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3月4日の田原坂・戦況概図 | |
西南戦争当時、境木側から見た田原坂 写真奥へ
蛇行している道が田原坂 |
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現在の田原坂・一の坂 道の両側が一段高く道はまがり先が見えない |
吉次峠の激戦 |
3月4日は吉次峠でも両軍の戦闘がおこなわれている。 野津道貫大佐(野津少将の弟)率いる二個大隊は、濃霧にまぎれて険しい道を駆け上り、薩軍・本隊が守る防衛戦を攻め、吉次峠北側一帯を占領しようとした。 薩軍は一番大隊隊長・篠原国幹と二番大隊隊長・村田新八がこれを察知し、川尻からの増援を中核とする隊を急遽率いて政府軍の両翼へ展開。 篠原は左翼として三ノ岳中腹から、村田は右翼として半高山山頂より午後1時ごろから政府軍を挟撃。 政府軍は薩軍の激しい突撃に総崩れとなった。 「官軍が右をつけば、薩軍その左に乗じ、左を打てば右射撃を以って迫り継ぐに銃剣を以ってし、次で白兵戦となり、一進一退、互い死力を尽くし、両軍とも、午さんをなすの暇なく、乱戦苦戦名状すべからざるの修羅場となった・・・・」 と、当時の激戦を記述した文献がある。 |
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3月4日の吉次峠・戦況概図 | |
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現在の吉次峠西の峰から高瀬方面(玉名)を望む |
午後、篠原国幹は六本楠にて緋色の外套(マント)を着し、銀装の大刀を帯刀というひときわ派手な出で立ちで陣頭に立って薩軍を指揮していた。 吉次峠攻めに従軍していた政府軍・近衛第1連隊・江田国通少佐は篠原とは同郷で面識があり、立つ男が篠原とわかると射撃上手の者達に狙撃を命じ、数発で篠原を倒した。 篠原を狙撃したのは、のちに村田銃を開発した村田経芳少佐といわれている。 篠原の戦死後も薩軍の勢いは止まる事はなく、特に熊本隊の活躍はめざましく、半高山・吉事峠・耳取山を死守して政府軍の攻撃を退けた。 政府軍は、篠原狙撃を指揮した江田少佐をはじめ多くの将校・兵卒が戦死、野津道貫大佐も弾を受け(2発は軍刀・1発は帯皮で止まる)、そのほか死傷者が続出し損害多大。このため午後三時には支えきれず敗走し、一大隊を原倉等に残して高瀬に退却した。 政府軍、3月4日の銃弾消費量は推定・数十万発。当初の予測は5〜6万発であったので、いかに激戦であったかが伺える。そして217名の戦死者をだしている。 この日以来、政府軍兵士は吉次峠のことを“地獄峠”と呼んだといわれる。・・・・一方薩軍では篠原の死を悼み、皆が痛惜した。しかし戦いはまだ序章に過ぎない |
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覚悟を決めていた篠原国幹 (一部推論)
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玉名市(当時は高瀬)から植木へ抜ける国道208号。かつての街道と重なるこの国道は田原坂東側の谷筋を通って植木へ抜けている。 田原坂は江戸時代初期、肥後の大名・加藤清正が熊本城防衛のため、街道を通行しやすい谷筋ではなく、勾配のある丘陵の稜線に通した。 さらに街道を凹状に掘り下げて両側に壁を作り、左右に細かくカーブをつけて前方の視界を遮った。これによって非常に攻めにくく、防衛側は両側から自在に攻撃出来る。・・・・二百数十年後、この防衛線が威力を発揮した。 |
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谷本計介戦死の碑 |
田原坂で両軍が激突する中。熊本城では谷干城以下の鎮台兵が、薩軍の水攻め包囲の中で籠城を続けていた。 谷本計介が政府軍主力へ救援の連絡の命を帯びて熊本城を脱出したのは、田原坂での戦いが始まる前の2月26日の午後1時頃といわれている。 |
谷計介の碑 位置 |
途中までは岡本軍曹が道案内をつとめていたが、別れてからは一人で金峰山の東北を単独潜行。しかし吉次峠)で警戒する熊本・佐々隊の安岡義虎に捕らえられた。 谷本は尋問をうけたが、まったく何も知らぬ者として装い通し嫌疑を免れている。記録では「・・・・古びたぼろぼろの着物をまとい、縄の帯、よごれた手ぬぐいをぶら下げ、尻切れ草履を履いた色の黒い鼻の低い男・・・」とされ、どう見ても間者や密偵には見えなかったらしい。風体でわかるような間抜けな間者・密偵もいないとは思うが・・・・・。(^^;) 佐々隊は谷本を人歩(人夫)として歩卒に繰り込み作業をさせていたが、隙を見て脱出に成功。熊本を出てから3日目の2月28日に高瀬の政府軍本営に達し、熊本城の状況を報告した。 使命を果たした谷村は3月4日、田原坂の戦闘が好転しないことに憤慨し三好少将(第2旅団長)の引き留めを聞かず前線て戦死。享年25才。田原坂・二の坂には谷本計介の碑が立っている。 谷本計介:宮崎県諸県郡倉岡生まれ、明治5年徴兵により熊本鎮台に入隊。明治7年2月佐賀の乱に 際して戦功をあげ、6月陸軍伍長となり、征台の役にも従軍している |
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西南戦争ツーリングレポート 4 |
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