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政府と対立の中で
変貌する私学校



私学校の誕生から決起へ・・・・

 明治政府は、日本の近代化をめざし次々と改革を断行した。その中心にいたのが西郷隆盛である。
 この改革は、士族の特権や誇り・生活基盤を奪う事になり、各地で反乱が続いた。
 特に明治維新に尽した旧薩摩藩・鹿児島県士族の反発は激しく、県内では薩摩藩時代の旧制度が依然として残り、政府の力が及ばない、独立状態に近い形になっていた。

 そんな最中の明治6年、西郷をはじめ政府・軍に出仕していた多くの士族が、政変で政府に失望して辞職。鹿児島県へ帰郷する事件が起きた。
 これによって、鹿児島士族の反発機運は一総高まることになる。

 帰郷した士族たちの中で有力な者は政府に不満はあったが、決起反乱は政府に有利にしか働かない事を知っていたので、反乱を防ぎ、事ある時には堂々と政府渡り合う、新しい時代に適応する教育が必要との気運が高まり私学校を創設した。

 私学校の指導には元政府高官や元軍人・将校ら有力士族があたり、薩摩固有の志気と明治維新の純粋な精神を受け継いで、国家非常時やあらゆる事態に即応できる人材育成をかかげた。
 この理念には政府の要人や識者も賛同し、「鹿児島は西郷たちが押さえているので大丈夫・・・・」という楽観論さえもおこった。

 しかし実態は違った方向へと進んでいく。皆が頼りとする西郷・私学校幹部の意志は、私学校士族の末端まで浸透する事はなく、報道に右往左往し、西郷も自分を担ぎ出す勢力から自身を遠ざけるため表向きな事に参加せず、農業指導(吉野開墾社)などはしても、自身の心中を直接語ることはあまりなかった。
 さらに教育内容も明治政府の改革に対する反発から。軍事教育や政府批判の精神教育を強めてしまい、教育機関というより政治団体的色彩を強めてしまう。

 そして私学校は鹿児島県内各地に分校を開設。地域の若者を入学させ最盛時には130校にのぼり、全生徒1万人以上の規模に膨れあがった。このような中で私学校士族は次第に隠然たる力を持つようのになり、鹿児島県庁は私学校士族を各地の官吏に任命(政府使命官吏では士族の反発が起きるため折衷策)。これによって政府の意向は鹿児島県には届かず、末端の私学校士族を増長してゆく結果を産んでしまう。

 当時、政府の改革により各地では士族の反乱・農民一揆等が頻発。各地で不穏な空気が渦巻いていた。佐賀の乱、萩の乱、神風連の乱・・・と続く中、それらに呼応せず鹿児島が平静を保ったのは、桐野・村田・篠原ら私学校幹部の日頃の努力によるものだった。

 そんな鹿児島士族の動きは政府にとってはむしろ不気味な存在であり、警戒感を強めて様々な圧力と挑発を繰り返し、ついに密偵を送り込む。

 その中で私学校士族らが捕らえた政府密偵から“西郷刺殺”の情報を知る・・・・これに激怒した一部の士族は、政府軍が夜間に弾薬輸送をおこなう事を知り、「夜中にこそこそとするなどと、卑怯な・・・!」と、次々政府軍弾薬庫を襲撃。私学校幹部たちの努力は、水泡に帰す結果となった。


明治10年2月5日
 鹿児島私学校講堂で幹部会議が行われた。この場には正装した西郷も出席している。
「政府に異議があり、陸軍大将・西郷隆盛が上京して政府に問い正す。
・・・・それをどの様な方法でおこなうか?」について意見が交わされた。

 桐野利秋・別府晋介等は「断固政府問罪の軍を起こし上京すべきだ」と決起・出兵論をとなえた。
 一方で永山弥一郎う(盛弘)や野村忍介・西郷小兵衛らは「数人の使節で上京し、政府の非を問いただせ」と慎重論を唱えた。

 事の次第から考えれば慎重論が現実的である。軍を興せば、政府には暴徒鎮圧の名目ができてしまう。議論の場で政府の徴発的なやり口を糾弾できれば、鹿児島側有利に働く可能性が高いと考えられるからだ。たとえ政府が西郷ら使節の身に何かをすれば政府への非難が高まり、そのときこそ出兵する大義ができる。全国各地の士族も同調は必至。

 平時なら間違いなく慎重論が採用されたはずだが、出席した士族達の多くは、政府のやり口に忍耐の限界を超えて冷静さを失っていた。元々は決起・出兵論に反対の桐野・篠原らですら「我慢の限界。押さえるのは限界・・・!」とあきらめ、永山ら慎重派を説き伏せて“支持多数!”で出兵論を採択。論議をまとめてしまう。

 そして最後に西郷の“同意”(「皆がそういうのなら従おう・・・・」といったニュアンスの言葉)を得て正式に決まったのである。

 会議に出席した西郷は終始発言はおこなわなかったという。元々西郷は政府のやり口に怒っていたが、士族の決起は厳しく戒めてしていた。
 みずから軍の整備を進めた西郷にとって、体制の整わない士族の武装決起・出兵の無謀さは、充分はわかっていたのだ・・・・。

 理詰めていけば、弾薬庫襲撃者を政府に引き渡し、私学校を解散すれば、騒動は終息する。だがそんな“仲間を売り渡すような真似”は、誇り高い薩摩士族は許さない。自暴自棄な内紛や反乱が起きよう。

 ここは尋問使節だけでは“弱腰”として収まりがつかないので、不本意ながらも軍を起こし、政府尋問使護衛を役目として上京する・・・・途中抵抗する者は一蹴あるのみ!」・・・・この漠然とした折中策しか士族の暴走を押さえる方法がないと結論に達したのだ。

 私学校士族が最も敬愛する西郷が出兵に同意すれば、もはや慎重派が異を唱えることはできない。目上の者の意見が重要な薩摩士族の気風としてタブーだからである。

 会議からわずか10日あまりで薩軍は編成され、出兵するのである。
桐野 利秋
桐野 利秋
別府 晋介
別府 晋介
篠原 国幹
篠原 国幹
永山弥一郎
永山 弥一郎
村田 新八
 西郷小兵衛
西郷小兵衛


西郷隆盛の人物像と西南戦争(推理)

西郷 隆盛(肖像画)  西郷隆盛は大人物といわれるが、その人物像はわかりくい事でも有名だ。
 西郷は自己顕示欲がなかったのか、著述や日記などあまり残しいない。西洋の文化・技術に関心が無かったのか、軍服以外は洋服もあまり着なかった。また一枚の写真も残していない。
 しかし西欧化してゆく時勢を否定せず、西欧を意固地に嫌う者を一喝することもあったという。

 周囲の人物が残した文献・証言などから共通する西郷評は私の主義主張・損得だけで行動する人物では無いということだ。、とすると人柄(人物像)の理解なしで、西郷が西南戦争に同意した訳は分からないのではないか?。そこで西郷の人柄をさぐってみよう。
西郷 隆盛(*1)
 ・・・・西郷は城下士(下級武士)でありながらその才能を見いだされ、抜群の行動で信望を集め薩摩藩をまとめ、倒幕・明治維新を成し遂げた・・・・。これはよく知られている。

 西郷の行動は陽明学の「知行一致」が基本といわれているが、その行動は常に情や道義に裏打ちされていたという。
 戦いや交渉のとき、まずは強く押し出るものの無理押しぜす、交渉の段となると、大筋さえ相手が呑んでくれれば、相手を立て敵味方越えた温情解決をはかる事が多かった。時にはどちらが勝者かわからない時もあって、敵将に厚い信頼を得る事もあった。

 さらに有名なところでは幕府に追われ、薩摩藩に庇護を拒まれた同志の僧・月照を哀れんで、共に入水自殺を図った事がある。心情・道義を尊び、精神性を尊ぶ鹿児島では「大西郷」「西郷南洲翁」と神格化された存在になったのも、そこにあったのだろう。

 しかしこんな話も伝わっている。道義に反する人、物欲や金に汚い人は淡泊に見放すなど潔癖すぎる事も多かったという。特に相性の悪るかった主君の父・島津久光のことを、公然とののしり讒言される事もあったという。
 また人一倍反省心も強く、不本意な島流しに二度もあった時も、まるで自らの悪行であると恥じたり、維新の戦いでは戦端の強引さと、戦いの拡大と犠牲者を多く出したことを悔いて、鹿児島に戻ってしまい、大久保・岩倉らを困らせたこともある。
 このように西郷は事が理想から逸れと、意欲を失う癖がある人物であった。豪快な大人物といわれた西郷は、純粋すぎた“狭量な理想家”であったのかも知れない。

 ところがそんな面は、西郷の人物評価にあまり取り上げられてこなかった。これは西郷が“その面”を出すとき独特のユーモアをもっておこなったり、逃避を逆境に耐える“臥薪嘗胆手”の美談にも見えるので、混同されたのかもしれない。歴史上の大人物ゆえに美化する傾向はつきものだが・・・・。

 維新の戦い終結後、再び政府に出仕した西郷であったが、明治六年に正院閣議に提出して可決した朝鮮大使派遣案(遣韓論)は派閥闘争に利用され、結果盟友の大久保と対決させられた果て、否決されて辞表を提出。そして鹿児島へ帰ってしまった。

 西郷の使節派遣案は「本心は征韓であった・・・・」と懐疑的な見方もある。ただこれらは通史の鵜呑みや軍人=好戦的との先入観が強い場合が多く具体的な立証に乏しい。いろいろ検証はあるが、“まずは征韓ありき”の世情論にあって“まずは交渉である”との案を出した事は人道的・道義的にも正しかった。

 政府は名目「内事優先」といって西郷案を強引に否決しながら、後に武力で朝鮮を脅し開国させ不平等条約を結ばせた点からして、一貫した意志を持って反対した事ではなかったことがわかる。
 ただ、否決であっさり帰郷してしまう事。俗世の不浄にまみれるより、純に我が信じる世界にいることを選ぶ。これが西郷の良さであり、限界、誤解される元といえるのだろうか?
 おしむらくは西郷に匹敵するほどの人物が、帰京後彼のそばにいなかった事。

 鹿児島へ帰った西郷は、政府にも不平士族の決起にも組みせずにいた。しかし私学校士族の決起・薩軍出兵を止められず、不本意ながら同意して西南戦争へ突入する。
 一世紀以上たった今、真実はわからない事も多いが、当時はこんな心情からそうしたのかもしれない・・・・。

 ・・・・自らめざした明治維新・新政府の大改革。それに間違いはない。しかし、結果共に犠牲を払ってきた士族たちには苦労を強い、誇りまで捨てさせることになってしまった事は辛く、心苦しい。
 だからこそ政治家・政府は清く正しい道を示し進まなくてはならないのだ。ところがその政府では、わずか数年で政争・腐敗が横行・・・・。

 「これまでの犠牲は何のためか・・・・!」やりきれない思い。そして新しい時代を受け入られずに迷う士族達。時代は武士(士族)がそのまま生る事を許さない。時流に従うことは武士の誇りが許さないだろう。どうしようもない堂々巡り。
 ・・・・それを強いた張本人の一人が西郷なのだ。それでも鹿児島の士族たちは自分を慕ってくれる。
 政府の有様に落胆し鹿児島に引きこもっても情に厚い西郷は、彼らを明治政府のように切り捨てるような事は出来なかった(政府の方針は理屈では理解できるが)。

 西郷にとって出来る事。それはたとえ“負け戦”であっても士族たちの思いのままにさせ、それに殉ずる事。時勢より情を選んだ、ゆえに黙して薩軍大将として担がれたのだのだろう。
 西郷は情によって道を開き、情によって士族とともに生涯を閉じたのだと思う。

 薩軍が決起した報を聞いたとき、東京にいた名だたる者たちは「西郷が士族の反乱を押さえるだろう」と楽観する者、
 「あの西郷が起ったならきっと政府を正すだろう」と世直しを期待する者など、様々だったという。そして対局の政府は、様々な挑発策が露呈されては困るので、いち早く薩軍を賊徒にして軍を動かし始めた・・・・まさか西郷が薩軍に加わっていると思いもせず。


 西郷の人物評価はとかく倒幕・維新の功労者として褒め称えられる(特に鹿児島では)。一方で征韓論や西南戦争を引き起こした人物として非難されるなど、両極端に別れる。
 しかしいささか特定の心情・思想でみてしまうむきもある。どんな歴史上の人物も一方向で割り切れるものではない。


(*1):写真ではありません。西郷隆盛の死後キヨソネによって弟:西郷縦道と従兄弟:大山巌の顔を元
   にして描かれたコンテによる肖像画(原版は消失)。本人と確証ある写真は今だ現在発見されて
   いません。




明治10年2月20日。薩軍・西郷隆盛が率いる隊は、現在の宮崎県えびの市から加久藤峠(堀切峠)を越え、旧相良藩の城下町・人吉に入った。
 肥後・相良藩は、薩摩・島津藩と共に鎌倉幕府以来約700年の伝統をもつ歴史ある家柄。江戸時代には石高約2万石の大名として明治維新を迎えた。
幕末の文久2年、人吉城下が寅助火事と呼ばれる大火に見舞われた際、相良藩は薩摩藩より約五千両の援助を受けている。その恩義を感じる人吉士族たちは西郷ら薩軍を盛大にもてなしたという。
 21日。西郷たちは球磨川を船で下り八代を経て川尻へ向かった。
人吉城跡
 西郷がこのルートをたどったのは、肥満とヘルニア・フィラリアなど持病があったと言われ、このため水俣〜八代間の難所を避け、川を使える人吉を経由したのかもしれない。人吉士族が薩軍に参加したのは田原坂の戦い直前。士族たちの意見が分かれ、手間取った為だった 人吉の位置


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