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雷撃隊・振武隊・行進隊
大口・鹿児島へ
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雷撃隊の奮戦

 人吉を本拠に政府軍を迎え撃つ薩軍。一方、豊後で展開する奇兵隊と並んで薩摩では雷撃隊が大口〜薩摩東部へ展開。鹿児島方面へ行進隊・振武隊が展開していた。

 特に大口・水俣の肥薩境(熊本県・鹿児島県境)では雷撃隊が寡兵にもかかわらず田原坂にぬ劣らぬ戦いを繰り広げ、薩軍本隊が人吉で敗れる中で孤軍奮戦。本隊側面を守り抜く。

5月4日
 政府軍・別動第3旅団は、大口攻略に3個大隊を水俣から大口攻略ため先発させ、大口の北西・山野まで進んだ。

5月5日
 大口の薩軍・雷撃隊は政府軍を撃退すべく部隊を展開。6日から牛尾川付近で交戦するも敗れ、政府軍は大口にせまった。
高熊山からみた大口盆地。ここで薩軍・雷撃隊と政府軍の戦いが繰り広げられた。
5月4日〜5月12日頃の大口・芦北付近の戦況概図
5月9日、
  雷撃隊隊長・辺見十郎太は自ら隊を率いて政府軍と交戦、猛烈な攻撃で政府軍を撃退。肥薩境を越えて追撃し、11日には水俣に迫る勢いで進軍し大関山〜久木野に布陣。政府軍が退却の際放棄した多くの武器弾薬を接収した。
  さらに球磨川沿いに布陣していた鵬翼隊が連携して佐敷(芦北町)を攻撃。雷撃隊傘下の熊本隊も肥薩境を越えて矢筈岳・鬼岳に展開して出水・水俣へ攻め込む動きを見せた。

5月12日
  鵬翼隊は佐敷で敗れ守勢に回ったものの、雷撃隊は物量・兵員で圧倒的に優る政府軍相手に、第二の田原坂と云われるほどの奮戦を見せ、対等に渡り合う。

 政府軍は当初別動第3旅団の3個大隊程度で大口攻略は可能と見て、他は出水から鹿児島県内・薩摩半島東側の制圧を目指していた。
 しかし薩軍の予想以上の動きを脅威として増援を決定。第3旅団を佐敷。水俣に第2旅団の配備を決める。

5月13日〜6月13日頃の大口・芦北付近の戦況概図
6月13日〜25日頃の大口戦況概図
6月13日
 人吉を占領した別動第2旅団は、薩軍本隊を追って加久藤峠(堀切峠)を越え飯野(宮崎県えびの市)へ進軍。雷撃隊と薩軍本隊との連絡を絶つ。

6月17日
 政府軍は八代で作戦会議を開き、別動第2旅団は小林攻略と大口支援。別動第3旅団・第2旅団・第3旅団は大口攻略後川内・宮之城、栗野・横川方面へ進軍を決定

6月18日〜19日
 雷撃隊は辺見の指揮のもと政府軍に多数のの砲弾を浴びせ進撃をくい止めていた。
 しかし人吉から進軍した別動第2旅団の攻撃を受け、大口北東の坊主石山が陥落。大口攻略の3旅団も郡山まで進軍。高熊山に籠もる熊本隊も包囲された。

6月20日
 包囲された高熊山の熊本隊は大雨の中、18日から政府軍の猛烈な銃砲撃を受けていた。これに塹壕を築いて山中で抜刀戦で対抗。激しい戦いが繰り広げたが、物量・兵力差はいかんともしがたく後退。この日雷撃隊本営の大口も陥落した。

6月23日
 政府軍宮之城を占領。雷撃隊の迂回挟撃を阻止しながら鹿児島へ進軍する。

6月25日〜29日
 雷撃隊は大口の南、曽木〜菱刈付近で政府軍を迎え撃ったがふるわず、行進隊・振武隊の守る栗野・横川へ後退。約二ヶ月に及ぶ肥薩境・大口の戦いはおわった。(*1)
高熊山山頂の西南之役慰霊碑と辺見十郎太・池辺吉十郎奮戦之碑
高熊山山頂に残る薩軍・塹壕跡。数カ所残っている
高熊山山頂の弾痕跡の残る岩


(*1)薩軍・雷撃隊に従軍した大口士族等は289人、戦死者82名と伝わっている




政府軍、鹿児島占領・北進

 薩軍が人吉へ移動している間、政府軍は鹿児島へ軍を派遣。薩軍の本拠を押さえ、退路を断つためでありる。


3月7日
 政府は明治天皇の勅使一行を鹿児島へ護衛兵と共に派遣。旧薩摩藩国父・島津久光と面会し、私学校とは一切かかわりがないことを明言させ。薩軍を支援していた鹿児島県令・大山綱良を出頭させ、長崎へ護送

 4月24日〜27日
 熊本・百貫石と松合から出港した川村中将(参軍)率いる海軍軍艦は、別動第1旅団、別働第三旅団の2個大隊、別働第五旅団・工兵半大隊、第4旅団の近衛砲兵2個小隊・工兵2個分隊を載せ鹿児島へ上陸。鹿児島県庁など主要機関の施設を占領。(*1)

  人吉に入っていた薩軍は、別府晋介の指揮の元、桂久武を兵站監、中島健彦(監軍・貴島清)の振武隊、。相良五左衛門の行進隊、奇兵隊3個中隊約4500名(後で徴用した兵を含む延人数)を編成し派遣。4月30日人吉出発。


5月1日
 川村純義中将は鹿児島県令心得・仁礼大佐に命じて警視隊に鹿児島の警察業務を代行させ、市街の巡視・薩軍関係者宅捜索を実施。(*2)

5月3日。
 栗野・横川に進軍した薩軍・行進隊・振武隊は、加治木の士族隊も加え鹿児島攻撃を準備。熊本の政府軍本営は第4旅団を増援として鹿児島に向かわせている。

5月4日
 薩軍・行進隊・振武隊は鹿児島近郊に到着。草牟田、武村、吉野などで、突撃の期を伺います。

5月5日〜6月24日
 行進隊・振武隊は山田から鹿児島に突入し、城山占領を目指したがが失敗。
5月6日から振武隊は甲突川尻始め鹿児島市街周辺で政府軍と戦いを繰り返した。
 5月10日には鹿児島県内募兵した15中隊を加え、谷山から紫原にかけて配置。華倉の戦い、武村・吉野・武の岡などで政府軍と戦う。
 12日、官軍は各隊の連携を強化。守りを固めて薩軍を撃退。



 鹿児島市街では薩軍に協力する士族の抵抗が激しく、鎮圧のため政府軍は家屋へ放火。市街が広範囲にわたって焼失。鹿児島市街での士族の抵抗は6月25日ごろまで続く。(*3)

6月25・26日
 第4旅団は北上を開始、大口から南下する別動第3旅団・第2旅団と連携し行進隊・振武隊を攻撃。出水口の薩軍を破る。

6月27日
 行進隊・振武隊は蒲生へ。

6月29日
 別動第1旅団は大隅半島の高須から大崎へ進出。

6月30日
 行進隊・振武隊は加治木へ。

7月1日
 別動第3旅団・第2旅団は横川占領。

7月3日
 別動第3旅団・第2旅団は加治木を占領。政府軍全軍の戦線がつながる。

 人吉・大口を失い鹿児島への退路も失った薩軍は、宮崎を本営として部隊を展開。戦場は大隅・日向へと移ってゆく。
4月26日〜7月1日頃の鹿児島付近戦況概図
(*1)桂久武ら募兵・物資調達と鹿児島防備の準備のために4月16日に鹿児島に入っていたが、政府軍が
  上陸したため横川に逃れている。
(*2)政府軍の鹿児島探索はかなり暴力的であったという。このため士族の反感は激しく、かなり抵抗
  している。

(*3)別動第1旅団は豊後の奇兵隊展開に即応するため5月15日、部隊を選抜し軍艦で豊後へ投入され
  ている。





 大口盆地を流れる川内川支流・羽目川。その畔の大口轟公園に海音寺潮五郎文学碑があります。
 武士の心と郷土鹿児島、西郷隆盛を追い求め続けた海音寺潮五郎は明治34年大口に生まれ。中学校教師在職中から執筆を始め、昭和11年「天正女合戦」「武道伝来記」で直木賞受賞。 戦後は「蒙古来る」「平将門」「天と地と」等次々と作品を発表。特に「武将列伝」「悪人列伝」では史伝小説という分野を確立した第一人者と云われます。
 郷里の英傑・西郷隆盛に関する小説・評伝等を数多く執筆。綿密な資料分析と独自の視点は、今も多くの人々に愛されな影響を与えています。
 昭和44年より総仕上げともいうべき「西郷隆盛」の執筆に専念。昭和52年執筆途上に76歳で亡くなりました。
 大口は西南戦争の激戦地、従軍した古老から当時の事を聞き育った事が、後の海音寺潮五郎を生み出す源になったのではないだろうか。


海音時潮五郎
文学碑の位置
海音時潮五郎文学碑



ふる里のさつまの国は
空あをし。ただあをあ
をと澄み通るなり

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