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熊本城・御船・植木
薩軍防衛戦崩壊!!
 
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衝背軍、熊本城へ

4月12日
 午前5時。政府・衝背軍はようやく熊本攻略に動いた。別動第2旅団・第4旅団(4月5〜6日到着)は、宇土から緑川を渡り、熊本城の南・川尻をめざして進軍。
 別動第1旅団は宇土の東、隈庄から緑川を渡河し、東から薩軍・阻止隊(三番大隊・永山弥一郎隊長)・熊本城包囲隊(五番大隊・池上四郎隊)撃破を目指した。
 裟婆神峠から甲佐に入っていた別動第3旅団も御船へ。衝背軍は南から薩軍を包囲する。

 薩軍・阻止隊は緑川北岸に沿って防衛線を展開していたが、熊本城包囲隊を除けば、兵力は3個中隊に熊本協同隊をくわえても約1000名ほどしかおらず、衝背軍を阻止するにはあまりに少ない。田原坂吉次峠の戦線維持のため、充分に兵が回せなかったのだ。

 薩軍・阻止隊を指揮する永山弥一郎は12日、川尻での戦いで負傷し、熊本城下・二本木の薩軍本営にいたが、衝背軍の御船侵入を知り陣頭指揮のため、13日人力車で向かった。

 薩軍・阻止隊に熊本隊の佐々隊などが応援に加わるものの、衝背軍の圧倒的な攻勢に耐えきれず、戦線は各地で崩壊。
 13日午後には御船陥落も時間の問題となり、永山は衝背軍が本営に迫ると荷駄掛(補給隊長)・税所左一郎と共に、老婆の住む屋敷を買い取って火を放ち、炎の中で自刃。
 ・・・・薩軍・阻止隊最終防衛戦の一角が崩れた。

 4月13〜14日
 別動第2旅団・第4旅団は、薩軍・阻止隊・熊本城包囲隊を各地で破り、4月14日午前9時すぎに川尻をほぼ占領。隈庄から進んだ別動第2旅団も薩軍を破って鯰付近まで北上。前衛の山川浩中佐の隊はさらに進軍し、午後4時ごろ一気に熊本城へ入城した。(*1)

 「このとき熊本城兵も亦(また)、旗を揮り掌(て)を抵(あ)て勇躍し、歓声一時城に満ちたり。創痍の将士御杖に依り、肩に扶(たす)けられ、皆城柵に攀(よ)ぢて望見し、重傷にして動くこと能わざりしもの、亦たも覚えず病床に危坐し、喜極まりて泣くものあるに至る・・・・」

 文献では山川中佐隊・熊本城到着の様子を、鎮台兵が歓喜で迎えた様子を伝えている。

 13日夜、衝背軍が川尻に迫るにおよび、熊本・二本木の薩軍本営も撤退。西郷は村田新八・池上四郎ら幹部と共に木山(現・益城町)へ移動。14日には熊本包囲隊も健軍(熊本市南東部)へ撤退した。

 4月15日
 別動第2・第4旅団は熊本城へ一斉入城。続いて別動第1旅団、御船を攻略した別動第3旅団も入城。ここに2月22日以来、薩軍による熊本城包囲は解かれ、谷干城少将以下熊本鎮台兵の苦闘は幕を下ろす。


4月12日〜15日の衝背軍の動き概図
(*1)熊本城下・城入場は15日との作戦 であったので、山川中佐は別動第2旅団長・山田少将から
    独断専行の譴責を受けている。



植木・木留の戦い

 政府・衝背軍と薩軍・阻止隊が戦っている間も、北部では政府・主力軍と薩軍・主力隊の戦いは続いていた。

 3月20日、政府軍は田原坂を突破し一気に植木まで進んだものの、薩軍はその南に素早く防衛戦を構築して阻止。両軍は新たな対峙を始めた。

 3月21日。
 政府軍・主力隊第1・第2旅団は、原倉〜横平山〜七本〜滴木〜長浦〜植木〜仁蓮塔〜の線で攻撃。
 薩軍は有明海沿岸〜三ノ岳−吉次峠−半高山−那知−木留−萩迫−向坂−立石−小路−石川−鳥の栖−隈府(菊池)の防衛戦で対抗。
 政府軍は滴木〜長浦〜植木を中心に攻めたが突破は出来なかった。

 3月22日。
 この日も政府軍は滴木〜長浦〜植木を中心に攻めたが勝敗は決せず。

 3月23日。
 政府軍は植木の他に吉次峠も攻めたが、熊本隊の反撃を受け、突破できなかった。

 植木・木留の戦いを“第二の田原坂”とも称される。政府軍は、薩軍防衛線を決定的に破る戦果は上げられずに日は過ぎ、次第に持久戦・膠着状態の様相となってくる。
 両軍の兵も次第に馴れてきて、浴場を作って悠々と入浴したり、戦いの合間には、近所の村から菓子や酒を売る物売りが現れたりする風景も見られた。

 さらに薩軍は、占領地一帯で戸口調査(人口調査)をおこない、徴税・食料調達、民間人を使役に徴用するなど本格的に兵站・補給体制確立を開始。対する政府軍も“降参するものは殺さず”との札を立て帰順を促した。

4月21日〜4月1日の植木・木留付近の戦況概図
4月21日〜4月1日の植木・木留付近の戦況概図

4月1日
 膠着状態を打開すべく政府軍・主力は、再び吉次峠攻略を開始。横平山の隊と原倉の隊が耳取山を抜き、半高山と吉次峠を攻撃。

 熊本隊は薩軍各隊が後退する中で、唯一引かずに耳取山・半高山・吉次峠を死守。しかし度重なる戦いで兵力を消耗しかつての強さはなく、この日耳取山・半高山・吉次峠は陥落。政府軍は三ノ岳へ敗走した熊本隊を追撃しながら、一方で峠を下りて木留の薩軍本営へも攻撃。

 植木方面でも政府軍が萩迫の薩軍を圧迫して木留へ砲撃を開始。しかし薩軍も粘り強く防戦し木留を死守したが、4月2日・木留陥落。

 兵力・物量に勝る政府軍は、その後もジリジリと戦線を前進。桐野隊も政府軍第3旅団に圧され、4月9日には隈府(菊池)から竹迫へ撤退。
 薩軍は防衛線を後退しながらも、熊本への通路は封鎖したままで、小天〜三ノ岳〜辺田野〜立福寺〜向坂〜鳥ノ巣〜竹迫の防衛戦は健在であった。

4月14日
 政府・主力軍首脳は、熊本城の籠城はもはや限界であると判断。薩軍防衛線の中で向坂の東側の守りが手薄と見て、そこから一気に力押しで熊本城へ進軍する作戦を決めた。

 この日、政府・衝背軍・山川中佐隊が熊本城へ到達する。





4月15日、
 早朝から薩軍防衛線各地では攻撃の太鼓を打ち鳴らし立て煙を上げ、一帯は黒煙に包まれた。政府軍は薩軍陣地に砲撃したものの、反応がなかった。

 政府軍は薩軍陣地へ進軍したがどこにも薩軍兵士の姿はなかった。薩軍は熊本城が解放されるに至って、挟撃(挟み撃ち)を恐れ、黒煙に紛れて全軍木山方面へ撤退していった後だった。

 薩軍撤退を確認した政府軍・主力第1・第2旅団は熊本へ進軍。先遣の大島大佐隊が熊本城下へ入り、熊本城北側・京町台から近づいた。
 すでに薩軍は熊本から撤退していたが鎮台兵は薩軍と思い、射撃を止めないため。塹塁にのぼって旗を振り、隊名を連呼してようやく伝わり、鎮台兵は手を挙げて招き歓迎した。
熊本北部・薩軍防衛線概図

 菊池(隈府)から桐野隊を攻めていた政府軍第3旅団も、薩軍主力が全線にわたり撤退したのを知り、隊を石川・鳥の栖・大池と3隊に分けて情勢探りつつ進軍。薩軍が木山(現・益城町付近)へ撤退した事を掴み、警戒線を張りながら熊本城下へ入った。

 ここに政府軍全軍が熊本に到達。薩軍は阿蘇南西の山麓へ追いやられる事になる。


熊本鎮台・52日間の苦闘
万全の近代武装と物資で待ち構えた様に言われる熊本鎮台
薩軍の包囲と籠城戦は、生やさしいものではなった。

 2月22日に始まった薩軍の熊本城包囲・強襲は、防衛に優れた城郭と政府軍熊本鎮台の重火器中心よる反撃に遭い、攻めきれなかった。
 やがて政府・主力軍の南下を知って薩軍は北上。熊本城は池上四郎率いる五番大隊・約3000の兵によって包囲。熊本城の東西を流れる井芹川・坪井川をせき止め城の周辺は水没。鎮台の身動きを封じた。
熊本鎮台の食料事情
2月19日 熊本城火災。30日分の食料を焼失。
2月22日 薩軍包囲攻撃始まる。
会計部より第三大隊・警視隊に酒18樽を与える。

2月24日 城中に酒11樽を各隊・県庁職員に分配。
2月25日 薩軍主力隊・高瀬へ。
3月 3日 田原坂の戦い始まる。
3月 2日 城下唐人町より米40俵。県庁より45俵を搬入
3月 6日 京町より192俵、他より29俵搬入。
3月10日 白米・玄米94トン確保。
1人1日1キロ消費計算で22日分に相当。
3月11日 攻撃軍に3日分の予備米と、1人:梅干5勺、ビスケット6個。塩:1中隊1日1斗を支給。
3月12〜
  13日
段山の戦い(段山の屁軍)
この頃から米以外の食料が不足し始める。
3月14日
衝背軍、日奈久上陸。
3月15日 精米・餅米などを合わせて84トン。30日分の食料を確保。
牛肉が尽きる。
3月18日 政府軍・田原坂を突破。
3月20日 食事が米と粟の粥だけとなる。
4月 1日 次峠陥落。
4月 4日 米・粟・餅米など主食料の総量が約40トンとなったため、食事内容を変更。
本部:粥・粟飯・粥
兵士:粥・粟飯・粟飯
軍夫等:全粟飯
となる。これにより18日間の食料を確保。
4月 7日 突囲隊編成。1人餅4個握飯1個、馬肉約150グラム、焼酎入水筒を携行させ出撃。
会計官指揮により、九品村などから米746俵、粟1俵を搬入。
4月 8日 突囲隊、衝背軍へ到達。
4月 9日 食事が米飯に戻る。
4月11日 米58トンとなる。1日あたり1.6トンを消費するとして、37日分の食料を確保。
4月14日 衝背軍・山川浩中佐隊、熊本城へ到着。
薩軍熊本城包囲隊撤退。
4月15日 衝背軍熊本城入場。
薩軍の水攻めで水没した熊本城下
段山の屁軍(へいくさ)
 熊本城の戦いは持久戦に移ってゆく。城郭周囲は水没したものの、城の西部の段山付近では両軍の距離はわずかで、膠着に苛立った両軍兵は“舌戦”をはじめだす。
 「米がないだろう」と、薩兵がののしると、鎮台兵は「おまえ達には弾がない」と応酬。やがてエスカレートして、鎮台から薩軍に向かって“屁”を放った。ブッ!
これが薩軍に聞こえ、薩軍も“屁”で応酬。ブッ!
怒った警視隊の巡査が直談判に薩軍へ乗り込んだ。これが3月12日〜13日の二昼夜も続いた戦いの発端だと云われている。
 発端はのどかな話だが、戦いは両軍あわせて100名以上の戦死者を出す熊本籠城戦最大の激戦となった。後に段山の屁軍(へいくさ)と呼んでいる。しかし発端が屁とは・・・・(^_^;)


突囲に賭ける
 籠城に備えて食料備蓄はあった。しかし直前の火災と想像以上の長期戦で、軍夫・県庁官吏とその家族約5000人のの食料をまかなう事は至難であった。次第に食料は不足し牛馬はもとより猫・ネズミ・堀の鯉・フナ、加藤清正築城以来、城壁に埋め込まれたヒジキまでも食したと言われている。
 籠城40日を過ぎるころには食料があと10日ほどしかないことが判明。4月7日に突囲隊の編成を発表。
 突囲とは薩軍の包囲を破って政府軍と連絡を取る事である。しかしこの作戦は“口減らし”という悲惨な一面も持っていたので、たとえ作戦が失敗して彼らは帰還できない。減った兵の分だけ、鎮台の食料に余裕を作る作戦から。この作戦に鎮台司令・谷干城自ら指揮すると言い出し、参謀長の樺山中佐が引き止める場面があったという。
 突囲隊は鎮台(第13連隊)・第1大隊(奥保鞏少佐指揮)と決まる。4月8日、突囲隊は城から出た支援隊の援護のもと進軍。みごと薩軍包囲を突破、衝背軍前衛へ到達した。
 この戦いの間に、会計官指揮による食料押収を城下でおこない、結果5月15日までの食料を確保した。戦時調達、要するにかっぱらった訳である。


妻達の奮闘
 籠城中の兵を支えたのは妻達だった。鎮台司令・谷干城婦人・谷玖満子を筆頭に、将校・兵の婦人も区別なく動員され、傷病兵の看護などに当たった。籠城中は将校・兵士から優先に米飯などが配給され、戦闘員以外は、粟飯や粥が配給されていた。こればかりでは辛いと思った玖満子婦人は、皆と共に戦いがやむと城内外で野草をつみ、食材調達に励んだ。
 この玖満子婦人、相当な“やりての方”で、彼岸前に餅米の配給があったとき、婦人はぼた餅造りを発案。“道具は何とかする・・・”としてある日の夜半、単身城の塀を乗り越え、城下の焼け残った家屋から道具を次々戦時調達で失敬!泥だらけになって、すりばちなどを持って帰って来たという話が伝わっている。
 これによって作られたぼた餅は、将校から兵にまで行き渡り、鎮台兵の志気を高めることに役立ったという。



苦闘54日目・・・
 薩軍が熊本城を包囲して54日目の4月14日、薩軍・包囲隊は衝背軍の接近を前に撤退。午後4時、隈庄から進軍して来た別動第2旅団・山川浩中佐隊が熊本城へ到着。ここに籠城戦は幕を下ろす。
 ちなみに山川浩中佐は、明治維新の会津戦争では会津藩士として新政府軍と戦っており、鎮台司令・谷干城は会津藩を攻めており、敵として対決した仲でもあった。

 籠城戦が終わった後。鎮台兵は休むヒマもなく薩軍追撃に取りかかってゆく事になる。




御船川  緑川水系・御船川沿いにある御船は肥後と日向と結ぶ交通の要衝。西南戦争の始まった当初の2日間この地に熊本県庁が移転したこともあった。政府軍はこの地を熊本攻略の重要地点として、衝背軍・別動第3旅団は御船へ進軍。
 対する薩軍・阻止隊を指揮する永山弥一郎自らが御船で陣頭指揮をとっていた。

 永山弥一郎(弘盛)は西郷隆盛に従い倒幕運動に加わり、明治維新の戦いでは新政府・薩軍4番隊監軍として参加。東北列藩との戦いでは、弾が飛び交う戦場で部下と共に酒樽をあけたという豪快な逸話が残っている。

 永山は豪傑な一方で冷静な視点を持ち、ロシアの脅威を考え、新政府では北海道開拓使に属し、陸軍中佐として屯田兵を鍛え明治6年の政変で多くの薩摩士族が西郷に同調し帰郷した際も動かなかった。しかし政府がロシアと千島・樺太交換条約締結したとき自論と政府の方針とが相容れない為辞職。鹿児島へ帰郷したと云われている。
帰郷後は私学校派士族とは一線を画して自論をもって望み、時には大久保利通や政府を評価するなど、鹿児島では異色の存在であった。

 薩軍の行動には、慎重論を持って出兵に反対したが、その才能を高く買っていた桐野利秋らの説得を受て参戦を決意。三番大隊長として、熊本沿岸部の防衛についた。
 しかし田原坂の戦線に多くの兵を取られ、衝背軍を阻止することはならず、御船を死地として挑み、炎の中でその生涯を自ら閉じた。
 享年40歳。勇猛ながらも激して付和雷同になりがちな薩摩士族の中で、独自の視点を貫いた漢の最後であった。

 御船では2度の戦いがおこわれた。戦いが繰り広げられた御船川も後に改修され、戦い当時の面影を伝えるものは少ない。



御船川
永山弥一郎
永山弥一郎・写真  この写真が西南戦争中
に西郷隆盛と間違って出回ったことがある。
御船の位置



西南戦争ツーリングレポ ート

田原坂・一の坂
      田原坂・一の坂
      下から坂の上が見えない凹状で蛇行した坂道。
      薩軍はカーブの向こう側や両側の茂みから政府
      軍へ斬り込んだ。
(7の続き)4/17(曇)
 今にも降りそうな曇天の田原坂。バイク2台は田原坂の入り口である豊岡の眼鏡橋を渡る。ここは政府軍が難儀し薩軍が勇猛を馳せた坂道である・・・・とは聞いているからさぞ険しいかと思いきや、ごく普通のダラダラ続く坂道。しかし見通しが悪い。凹上に削って作られた道は不規則に蛇行し、両端は土手に囲まれてその上は林。これは視界を遮って圧迫感を誘う・・・・西南戦争の頃と変化あまりないそう、いや江戸初期から道の造りは変わっていないそうで。言い表せないムードを感じる。
 一の坂・二の坂・三坂を越えて田原坂公園へ。西南戦争の全戦死者名を刻む慰霊碑見てその多さに改めて驚く。そして谷の下に木葉川はスグそこに見えている。「こんな低い丘が当時世界に例を見ない大戦争の舞台になったのか・・・」とは信じられない思い、そして今はのどかで遠足の生徒が遊ぶ姿・・・その差に何とも言えない思いになる。
 田原資料館を見学。有名な弾と弾がぶつかった“かち合い弾”や、老婆が弾よけに背負って逃げたという縁台(弾が貫通した跡あり!)には、驚くやら笑ってしまうやら・・・。

 資料館の手前、里見浩太郎が西郷隆盛を演じる「田原坂」のVTR(だいぶよれよれ画像でした・・・)を流している食堂&みやげもの屋で昼食。satounoとうひたつさんはうどんを頼む。店のおじさんはsatonoのうどんをまず持ってきた。そしてうひたつさんの分を持って来たとき、おじさんのハッピの袖が引っかかってしまい、ガッシャ〜ン!・・・・足ともとに飛び散る麺とつゆ・・・・(-_-;) ツーリングのネタを提供してくれたおじさんでしたが、おつゆでブーツが濡れて“つゆ臭くなった事”は最後まで言えませんでした・・・・・(^_^;A あっ、うひたつさんは代わりのうどんをちゃんと食べられましたので、ご安心を。

 こうして二人は田原坂から、熊本城を経て一路椎葉の宿を目指してひた走る事になります。当初の予定では田原坂は昨日の予定だったんだけどね。ああトラブルがなければ・・・・m(_ _)m  (Hへつづく・・・・)