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清正公の城塞は
薩軍の思惑を塞ぐ



熊本鎮台は一蹴あるのみ! だが・・・・
 明治10年2月21日、意気揚々と進軍する薩軍は熊本城攻略の本営とする川尻村(熊本城の南約8`付近)に続々と到着していた。
 さらに桐野利秋の激のもと、薩軍に呼応する九州各地の党薩士族隊も次々と合流。そしてこの日の夜、偵察に近づいた鎮台兵の発砲によって戦端が開かれた。

 薩軍の兵は「陸軍大将・西郷隆盛の上京と薩軍の出兵は大義によるもの。堂々と進軍せよ」との激の元、意気盛んであったろうが、その装備は、軍隊が平時に行軍する程度のもので、継続的な補給体制もなく、戦争になれば長期戦を続けることは困難ないもの。例えば薩軍の志願者は“洋式銃の携行”を条件にして募るほどであったし、“弾の支給も一度だけで補充の予定はなし”という状態であった。
 熊本出身のジャーナリスト・徳富蘇峰はこの状況を知って、「戦争にしては無策無謀、平和にしてはあまりに戦争支度しすぎている……」と、驚いたという。

 当の薩軍は徳富らの周辺の視点(薩軍は政府軍と真っ向から戦うつもりだろう・・・)とは異なっていた。
 薩軍は西郷刺殺問題など政府の挑発行為に、陸軍大将・西郷隆盛が政府尋問に上京する。しかし尋問使節だけでは、激昂した士族たちが暴発する可能性が高い。そこで立軍で収束し、素早く熊本城へ押し寄せ武威を示す。または陥落させ政府の不正を高々とアピールし、各地の士族の呼応してゆけば、政府も自分たちの意志を呑まざるを得なくなるだろう・・・。

 そのため戦略・武装は、移動重視の平時行軍武装で充分であった。もっともそれ以上の装備は、心ならずも出兵となった悲痛な心情が許さなかったであろう・・・・薩軍にはたとえ戦争になっても“積極的に戦場を広げよう”という意志はあまりなかったのである。
復元された熊本城天守閣
 そんな薩軍幹部の中にもいささか過信はあった。薩軍は熊本鎮台が“我々と同じ心情・同郷の者がいるから、城門は簡単に開く・・・・”という薩摩出身者の多い“同郷のよしみ”もどこかでを期待していた。
 次に“維新の元勲、陸軍大将・西郷の武威に前に刃向かう者はいないだろう・・・・”とも考えていた。これには政府軍への軽視が絡まっていた。

 政府は軍の創設以来、四民皆兵として士族以外からも徴兵をおこなっていたが、“戦は士族(武士)がするもの。志のない農民・町民に出来るはずがない……”長い封建社会のしきたりが染みついた士族にこの制度はなかなか理解できなかった。特に薩軍士族には多く薩軍幹部の中にも四民皆兵に反対する者が多かった。

 その上一年前(明治9年)に熊本城で起こった「神風連の乱」では、政府軍の失態もあり、「もし戦争となっても、熊本鎮台は一蹴できる・・・!」という楽観論が支配的だった。
 さらに、薩軍では“・・・・我々が大挙して行動(熊本城を包囲)すれば、各地の士族も呼応し国内は騒然となる。・・・・そうなると政府は西郷使節団を上京させる事でしか、事態を収拾はできなくなる・・・・”。とした期待もあった。
 冷静に見れば甘い期待でもあるのだが、もはや血気に逸る薩軍士族を押しとどめる手だてもなかった。

 このような中で、川尻に薩軍の本営は置かれたが、2月21日。偵察に来た鎮台兵が薩軍に対して発砲。兵の緊張は極限にまで高まり、準備が整うまでに何か起これば、それこそ軍は暴徒化しかねない。 
 こうして砲兵隊が到着しないまま、22日の早朝から熊本城(鎮台)攻撃は開始されることになった。

 ちなみに西郷は21日、人吉を出発。夜中になってようやく川尻に到着。早くも戦端が開かれてしまった事を知って、驚いたという。

 薩軍の事情・思惑は政府には通じなかった。
 元々従わない鹿児島士族を頭から敵視し、討伐したいと思う政府高官もいたのである。大久保利通あたりは鹿児島へ行き、で西郷と談判ししてともに事態収拾しようと考えたが、止められている。

 どうであれ政府側からすれば、武装した集団が鹿児島を発したとなれば、「賊徒」である。政府は勅命で熊本鎮台に徹底抗戦・絶対死守の厳命を発し、臨戦態勢で薩軍を待ちかまえさせた。
 その一方でかねてから鹿児島の反乱に備えた“征討軍”を、大阪・神戸などから九州へ出動させている。さらに各地の士族の呼応した動きを封じ込めるため、警戒を厳しくし、即応する体制を整えていた。

 最前線・熊本城鎮台の司令長官は、維新の戦いで西郷がその才を高く評価していた土佐藩出身の[谷干城]である。
 谷は薩軍(鹿児島士族)の勇猛さはよく承知していたし、農民出身が多い自軍・鎮台兵の志気の弱さも熟知していたので、不利な野戦はせず、救援が到着するまで熊本城に立て籠もり頑強に抵抗する構えでいた。

 とはいえ約4000鎮台兵と警視隊だけで、一万以上の薩軍に包囲される事は、闘う前から相当の苦戦は予想できる。そのうえ2月19日、熊本城は火災に見舞われ天守や多くの建物を焼失する事態にも見舞われていた。
 火災の原因は、失火説・薩軍放火説・鎮台首脳が兵の危機感を高める為の放火説などあるが、現在でも不明。
 熊本鎮台は戦う前から不利な中で迎え撃つことになってしまったのだ。



薩軍強襲 VS 鎮台防戦

2月22日。
 
午前3時、薩軍は地理に詳しい熊本隊士族の先導のもと川尻を次々発っていった。

城正面(北・南・東側)の攻撃(池上・桐野隊)
 
池上隊約2000名が城の北側、白川沿いの本庄村に達した時、熊本城内からの砲撃を受けた。そして城へ入る各橋突破を試みたが砲撃を受け、城東側の千葉城跡へ展開。一部の隊は錦山神社から京町口の埋門(うずめもん)へ攻撃を加えた。

 一方、桐野隊約800(桐野は同行せず)は、城南側・県庁(桜町付近)へ攻撃を加えた。
 鎮台側は城内各地に設置した砲台と、熊本城の石垣を防壁として有効に活用。薩軍へ猛烈な銃砲撃で、一時は県庁の一角を突破されたが、撃退している。
焼失前の熊本城天守閣


城背面(西・南西側)の攻撃(篠原・別府・村田隊)

 城背面の攻撃隊は、篠原・別府・村田ら3隊合わせて約3000名。正面の攻撃隊より多かった。

 熊本城は正面側(南)、堅固な城郭と掘に見立てた川で守られているものの、背面(西)は堅固な城郭が少なく城の弱点といわれている箇所だった。特に段山(だにやま)と呼ばれる小高い丘は、城の西端・藤崎台までほんの僅かで城内も見渡せた。さらに藤崎台あたりは城郭全体からから突出していて挟撃されやすく、突入の突破口となりうるところだった。

 対する鎮台側もここを薩軍が攻撃して来ることは充分予想していたので、隊の中でも屈強の部隊(神風連の乱でも動揺しなかった精鋭部隊)や、警視隊・火器を藤崎台に重点的にあて、その続きの藤崎神社、片山邸、漆畑、法華坂などにも多くの部隊と砲を据えて、薩軍を待ち構えた。

 午前7時。花岡山方面から進軍した薩軍・背面攻撃隊は、激しい砲撃の中を前進。別府隊の一部が法華坂へ、篠原隊と村田隊の一部が藤崎台へ、篠原隊と村田隊の主力は段山と漆畑へ攻め込んだが鎮台の攻撃は激しく、戦線は動かなかった。
 しかし午前10時頃、別府隊の一部が段山占領に成功して、正面の藤崎台や片山邸を攻撃。11時頃になってようやく薩軍の砲兵隊の一部が到着して砲撃が始まった。
 藤崎台は猛攻を受け、神風連の乱鎮圧に活躍した与倉中佐が負傷し翌日死亡。(*1) 樺山参謀長も負傷するなど死傷者が相次ぎ、突破される危機が迫ったが、何とかしのいだ。

 薩軍の攻撃は、突撃こそ勇猛果敢で激しかったが、砲による援護が乏しいため決定的な打撃力に欠け、堅固な城郭と砲や銃で武装した鎮台にすべて撃退された。
 こうして22日の攻撃は一旦終わり、夜になって薩軍幹部は本庄村に集まって作戦会議が開かれた。

 熊本鎮台の予想以上の抵抗に「このまま強襲を続けるかどうか――?」が議題となる。
 篠原・別府らは「犠牲をはらってでも熊本城を陥落させることが、今後の体勢を有利にする」として続行を主張。
 一方、後続部隊としてこの日の夜に熊本へ到着した野村忍助らは「いたずらに兵を失うより、北上して長崎や小倉を攻めるべきだ、熊本城は適当な兵で包囲すればいずれ飢えて陥落する・・・・」と異議を唱えた。

 元々篠原ら“出兵はやもえなし派”と、“出兵慎重派”の野村たちは初めら意見が合わないので、議論は進展しない。困った桐野は会議に参加していない西郷に裁定を求める。西郷は主力隊による熊本城攻撃を中止を採用した。

 23日〜25日
 
方針が決まったというのに、薩軍は翌23日・24日も攻撃を続けている。(*2) とはいうものの、さすがに歩兵強襲は次第に陰を潜めて砲撃主体になっていった。そしていずれも確たる戦果の無いまま、政府軍南下の情報が伝わってきた為、薩軍は移動と熊本包囲戦の準備にかかる。

 5番大隊(池上四郎隊)・約3000が熊本城包囲隊として城を囲み、薩軍主力は北上。4番大隊(桐野利秋隊)は山鹿方面、1番大隊(篠原国幹隊)・6番・7番連合大隊(別府晋介隊)が植木方面。2番台隊(村田新八隊)が伊倉方面へ向かい、政府軍に備えた。3番大隊(永山弥一郎隊)は背後の防衛のため有明海沿岸へ向かった・・・・。

 薩軍の主力は徐々に去ったが、熊本城包囲隊は熊本市街の南で坪井川をせき止め、城周辺を水没させ外部から孤立させた。
 この包囲は政府・衝背軍の進軍によって4月14日に解かれるまで続く。この間鎮台兵は飢えと闘いながらじっと耐えることになる。


(*1):裏切りを怖れた鎮台側による射殺説もあり。この直後与倉中佐婦人が、宇土櫓付近の空堀にあった家族の避難所
   で、男子を出産している

(*2):政府軍乃木隊の植木進出の報などで、薩軍先鋒隊は22日ごろとから動いていた。






 熊本城の南約8キロにある川尻は、緑川水系の年貢を集める集積地で、旧細川藩のなかでも特に賑わった街の一つ。鹿児島を発った薩軍は川尻に集結。ここに熊本城攻略の本営をおき、薩軍兵士で街は埋め尽くされた。
 薩軍の占領で町民の生活は混乱した。窮状を見かねた旧細川藩川尻奉行・上田休(やすみ)は、薩軍から協力するように求められたが、川尻鎮撫隊を独自結成。町民を守る治安維持にあたった。

 西南戦争後、政府は上田休を薩軍に協力したとえん罪をかけて処刑しています。これは政府の無策を隠す意図があったのかも知れない。

 上田休の功績は川尻の人々に受け継がれ、町内には威徳を讃える碑がたてられている。


川尻の位置
川尻小学校内にある碑(写真左奥