奇兵隊 野村忍介、
豊後・日向で政府軍を翻弄
冗談広告です!?(^^;)




西郷の直命・・・・

4月28日
 熊本・球磨川上流にある江代の古屋敷(現・水上村)で作戦会議が開かれ、具体的戦略と部隊展開が決まった。
 戦略は浜町(山都町:旧矢部町)で決めた方針を継承。球磨盆地を囲む山々を防壁とし、盆地の各入口前後に防衛隊を置き、持久戦をおこなう。そして豊後・大口・佐敷・鹿児島方面へ兵を送り、政府軍を牽制して勢力を拡大。その中で募兵と物資を蓄えるというものだった。
 薩軍の中には“人吉で持ちこたえると、その間に各地の士族が決起するだろう・・・・”と期待する向きもあったという。
 各隊の配置は、外部突出が豊後(大分県)方面:奇兵隊。鹿児島方面:振武隊・行進隊。大口方面:雷撃隊。佐敷:鵬翼隊。人吉防衛は江代:正義隊・千城隊、神瀬:常山隊、そして人吉の本隊。

 各隊は薩軍本営からの命令で球磨盆地周辺に展開に対しているのに対し、最も遠くへ出る奇兵隊は一隊だけの突出。隊長・野村忍介(おしすけ)は西郷隆盛の直命も帯びていた。

 この戦争に対して慎重派だった野村忍介は、“闘うのならば勝たねば・・・・”という思いが強かった。これまでの薩軍の戦略・戦術には否定的で、戦死した西郷小兵衛らと共に開戦前から熊本城陥落よりも小倉・長崎〜本州への展開を主張。さらに開戦後も政府軍の手薄な豊後方面進出を唱え、四国・本州までいれた戦略案を桐野や本営に具申していた。

 桐野たち薩軍本営(幹部)の大半は、心ならずも決起した出兵派で、彼らの気持ちは野村の様に政府軍に打ち勝つ事よりも、次第に自らの志を天下に示す事を主眼を置き、勝算は二の次の感があった。野村の策は悉く却下。

 この時期での豊後突出はもはや遅きに逸した感は否めない。その中で今まで総てを任せ沈黙してきた西郷が自ら野村に命を下す・・・・。起死回生の一手を野村の才に託したのかも知れない。

4月30日
 江代を立った奇兵隊の当初の兵力は2420名(党薩諸隊・飫肥隊等を含む)。椎葉の山々を抜け延岡を拠点とした。
 奥日向で熊本からの政府軍を牽制する池上四郎隊(*1)と共に、武器弾薬の製造・物資調達・募兵を進め、各地へ斥候を派遣し情報を丹念に収集。豊後・日向に各隊配置を進める。
奇兵隊の配置
豊 後:8中隊・飫肥隊
宮 崎:1中隊
美々津:2中隊
細 島:3中隊
延 岡:3中隊


(*1)5月4日、池上四郎は約1000の兵を率いて奥日向へ進出。5月10日には高城七之丞率いる部隊が
  三田井を占領し部隊を配備。以後鏡山など政府軍を牽制。池上は三田井を任せて延岡へ入り奇兵
  隊の後援にも努めた後、本隊の戦況悪化からへ人吉へ戻っている。



ゲリラ戦で翻弄

5月10日
 体制を整えた奇兵隊は8個中隊約1800を豊後攻撃に当てる。まず先発4中隊が延岡を出発。12日に重岡、13日には竹田へ侵入して警察・裁判所を破壊して占領。さらに竹田士族に報国隊を結成させ約600名を加える。(*1)
 14日には後続4個中隊も竹田へ到着し、大分突撃隊を選抜。

5月16日
 大分突撃隊のうち、先行隊15名が大分へ突入した。しかし警備が厚く転進。その東・鶴崎で上陸中の警視隊を発見し斬り込んだ。
 予期せぬ攻撃に警視隊は多くの死傷者を出したが、薩軍の少なさを見抜くと反撃。 先行隊隊長・鎌田雄一が負傷するなどして退却。攻撃こそ成功はしなかったが、この鶴崎が薩軍最北の到達地点となる。
     鶴崎・乙津橋。現在は大分市内の市街地。奇兵隊はこの先の
     浜まで到達した。



                鶴崎の位置
5月15日
 薩軍豊後(大分県)侵入を知った政府軍本営は、鹿児島を制圧した別道第一旅団から1個大隊を軍艦で大分へ投入。熊本からも熊本鎮台・第一旅団を竹田攻撃へ向ける。
 奇兵隊は伊東直二率いる2中隊が竹田援護入ったものの、激戦の末29日、竹田陥落。(*2)

6月1日
 人吉陥落。同日伊東直二隊は竹田の部隊を収容しつつ、小野市・三重へと移動して臼杵を攻撃。3面攻撃で政府軍を破り占領。

 撤退した政府軍は援軍を加えて、臼杵士族の先導の元、戸次(現大分市)、野津(現臼杵市・旧野津町)、白木(現佐賀関町)から臼杵へ進軍。臼杵沖から海軍軍艦・日進・浅間が艦砲射撃も加えた。伊東隊は政府軍相手に善戦したが、6月10日南東の津久見方面へ撤退。
      薩軍本営は6月1日人吉陥落前5月12日に宮崎へ移動。田栄太郎率いる中津士族は大分を去って中津隊として薩軍に合流                        
        
 奇兵隊は寡兵にも関わらずよく戦ったが、政府軍各旅団の体勢が整いはじめると、次第に圧されてゆく。(*3)

6月22日
 奇兵隊は政府軍の海からの侵攻に備える為と、前戦支援のため本営を熊田(現在の北川町)に移し、各隊を集約。日向(当時は鹿児島県)・豊後(大分県)境界の山岳地帯(黒沢峠、赤松峠、陸地峠、宋太郎峠周辺)でゲリラ戦を展開。薩軍本隊が追われ延岡へ来る8月中旬まで一帯を守り抜き、敗走する薩軍を迎え入れた。

 奇兵隊の作戦は一般に失敗と評価される。しかしすでに優勢な政府軍を圧倒する事は最初から無理な話。奇兵隊の戦術は最初から制圧より攪乱が主であったことから、充分承知の上で展開していたと思われる。

 野村が構想した豊後〜四国・本州への展開はついに達せられなかったが、敗戦続きの薩軍の中での展開は絶賛されるべきといえるだろう。奇兵隊の活躍がなければ、薩軍の敗北はもっと早く訪れたのかもしれない。(*4)


(*1)5月13日薩軍が竹田を占領した際、竹田士族は概ね中立であったが、親薩派士族と図って士族を
  集め参戦を強要し報国隊を作ったと言われている、竹田陥落大半の士族は降伏したが、180名
  程は戦い続け、8月17日の薩軍の解放で降伏投稿している。

(*2)5月29日、政府軍と奇兵隊の戦いは竹田市街約1500戸を焼失させている。
(*3)このほか奇兵隊は佐伯へ5月25日・31日・6月6日の3回攻撃したが、成功しなかった。
(*4)奇兵隊と並んで、辺見十郎太率いる雷撃隊等の活躍も見逃すことはできない(詳細は後章)。


臨時巡査、臨時仮巡査・・・・士族の武に頼った豊後・大分の情勢

 西南戦争開戦時政府は熊本を主戦場とし、東九州は戦域外と見ていた。大分県では駐屯する政府軍(警視隊含む)は僅かであった。大分県庁は不測の事態に備え、中立的で戦争を傍観していた県内士族を治安維持に頼る道を選んだ。

 2月24日、政府は“西京行在所第弐号・鹿児島県暴徒征討ノ広告(薩軍を暴徒として討つ公布)”を発した。大分県庁は各警察署に対し帯刀を命じる。さらに警視隊・巡査隊だけでは不足として、士族で“強壮ノ者”を集募し“銃刀携帯”を許可。2月26日には大分県庁・大分市街等の警備につかせている。これは正規兵を前提とする政府の意向とは考えづらく、県庁独自の判断で行われたものと思われる。
 この士族隊は3月5日、政府から中止が発令がされたことで解隊。政府は大分での備えは既存の警視隊・巡査隊で良しと考えていたらしい。

 3月31日。増田栄太郎(福沢諭吉の又従兄弟)を中心とする中津士族約60名が決起。中津城内の大分県中津支庁を襲い、武器弾薬を奪い中津城は炎上。4月1日〜2日大分県庁を攻撃。
 県庁は政府軍に救援を求めたが満足な救援が得られず、4月1日県内の杵築・日出・鶴崎で士族を急募。55名を“臨時巡査”に採用し警視隊・県所轄巡査隊と共に守り抜いた。中津隊は諦めて薩軍に合流するため大分を去る。臨時巡査は4月3日に中津隊が去るまで召集された。

 4月2日、中津士族の反乱に続き宇佐郡敷田村(現宇佐市)で一揆が起こる。翌日には下毛郡・国東郡に拡大。学校・吏員住宅・富農・富商への放火・略奪・破壊をくり返して暴徒化した。
 別府の警視隊・県所轄巡査隊が鎮圧に出動したが手に負えず、県庁は一時的に杵築士族を雇って投入し鎮圧する。さらに警戒のため30名の臼杵士族と20名の鶴崎士族を“臨時仮巡査”として続けて大分・中津の警備に配備した。

 中津隊の決起は県庁内で士族への不信感を産み、次第に士族の活躍は少なくなる。さらに大分県に薩軍・奇兵隊の出現によって政府軍が本格的に大分へ動員され士族の召集は中止。こうして士族による大分防衛は終わった。

 薩軍に対し物量・兵員の上で優勢であった政府も、すべてにそうではなかった。

 周防灘に面した中津は、豊臣秀吉家臣・黒田如水が入国後近世城下街が整備され、細川家・小笠原家・奥平家の支配を経て明治維新へ。西欧的近代思想を唱えた福沢諭吉は中津・奥平藩士。
 一方で福沢の又従兄弟で西南戦争で中津隊を率いた増田栄太郎は、少年期から国学を学び、幕末は尊皇攘夷へ傾倒。維新後も福沢諭吉・島津久光暗殺を計画。一時自由民権運動に参加するなど保守勤王・反政府の活動を続けた。
 明治10年西南戦争が起こると、中立が多かった大分士族の中で増田は同志を集めて決起。大分県庁襲撃後薩軍に合流し中津隊として各地を転戦。少数ながら勇猛でならす。
中津城
 8月16日の解散令後党薩隊の多くが降伏する中、増田以下10数名の中津隊士は最後まで西郷と行動を共にし、9月4日鹿児島・米倉で戦死している。
 中津隊決起直後に起こった一揆は、暴徒化し放火略奪をおこなった。これは中津隊の扇動による風説もあり増田栄太郎と中津隊を賊徒とする評価も一部にあった。
 福沢諭吉は、増田栄太郎ら中津隊を「中津士族の名誉」と絶賛している。



中津の位置

西南戦争ツーリングレポート
10

(9の続き) 4/18(雨のち曇)
 朝から椎葉は雨だった。民宿からsatounoはうひたつさんと薩軍が球磨盆地に入った不土野峠(熊本県水上村)を目指す。巨大な椎葉ダムを見ながら“峠へ入る道”を求めてR265を行くのですが、大雨とウネウネ曲がる山道で思うに見つからず、気が付いたら逸れて飯干峠へ・・・・(T_T) いまさら戻るのもアレ(へたれは一度テンションがさがるとやり直しができない・・・・)なので? R388に入って県境を越えて熊本県水上村へ・・・うひたつさんすんまソんm(_ _)m
 湯山温泉を過ぎて湯前あたりで雨も止み、昼には人吉に入る。ここでうひたつさんの前の職場のお知り合いと待ち合わせ。上村うなぎ屋の鰻丼を食べてひととき過ごす。
 天気は回復し、一説では薩軍が断頭台を置いて徴兵を促したといわれる青井阿蘇神社。薩軍砲台があった人吉城。薩軍本営と病院になっていた永国寺。政府の村山砲台跡とめぐりsatounoのばあちゃん家へ向かう。 我がばあちゃんは85を過ぎており「な〜んもできんよ・・・」言うので、晩飯は買っていくと言っておいたのに、叔母夫婦を呼んででごちそうの準備をしてました。
 ・・・・気つかわせてすまんです。ばあちゃん・・・・<(_ _)>
                      (11へつづく・・・・)
球磨川と人吉城石垣

西南戦争の部屋TOP
風色倶楽部INDEX