三州に蟠踞し、
機を見て計るも・・
当時はこんな公報あったのかな? 

人吉の攻防




組織再建・・・・
 4月26日〜30日。薩軍は球磨盆地の人吉で、浜町(矢部)で決めた新戦略の元、再編した部隊で行動を始めた。球磨盆地の出口に部隊を配置して守りをかため、豊後・大口・鹿児島へ隊を送り政府軍を牽制。その間に兵と物資を蓄え、機を見て打って出るというものだった。(*1)

 さらに人吉で人口調査を始め、税の徴収や物資調達、兵の募集を始めた。さらに人吉城では銃弾の製造(日産約2000発)も始めている。

 人吉および球磨盆地一帯は、薩軍に協力する人吉隊を出していた事。幕末・相良藩時代の人吉大火(寅助火事)の際には薩摩藩から多大な援助を受けそれを恩義に感じていた領民も多い。さらに維新戦争では薩摩藩配下で共に戦った仲でもあったので、薩軍(鹿児島士族)に好意的であったという。


薩軍の新編成

本 営
西郷隆盛
村田新八・(桐野利秋)
約2000名




破 竹 隊
隊長:別府晋介
6中隊:約600名
常 山 隊
隊長:平野正介
8中隊:約800名
翼 隊
隊長:淵辺高照
6中隊:約600名
正 義 隊


隊長:河野主一郎
9中隊:約900名

雷 撃 隊
隊長:辺見十郎太
13中隊:約1300名
鹿

行 進 隊
隊長:相良五左右衛門
18中隊:約1800名
振 武 隊
隊長:中島健彦
26中隊:約2300名


千 城 隊
隊長:阿多荘五郎
9中隊:約900名

奇 兵 隊
隊長:野村忍助
22中隊:約2450名
※他に池上四郎隊約1000が、三田井(高千穂)に駐屯し奇兵隊と連携。
※兵員数は党薩諸隊含む(推定)
※桐野利秋は大半は江代にいた。
現在の人吉市街。東西に流れる球磨川を挟んで北を町人街(写真奧の街)、南を城郭と武家屋敷街(写真左側)で街は構成され手いる。薩軍は城郭と武家屋敷街に本営を構えた。
 しかし薩軍が球磨盆地へ来た頃は、すでに政府軍優勢は伝わっており、薩軍に協力はしても募兵に応じる者は少なかった。(*2)

 この状況に熊本協同隊は人吉隊に対し“募兵に応じない者は首をはねよ!”と迫ったともいわれ。人吉城下の青井阿蘇神社には断首台が儲けられ処刑された者の首がさらされたとも伝えられている(*3)

 薩軍をさらに悩ませたのが兵の規律低下だった。歴戦の勇士は戦死し、生き残った薩兵は心身ともに疲れ切っており、軍を脱走する者が出始め、食料を求め民家を襲う事もあった。これに苦慮した薩軍本営は“脱走者や兵の分を逸脱する行為をおこなった者は切腹”との軍令を出す。

 断首台の件といい厳罰引き締めは、強い士気と団結を誇った薩軍が揺らぎ始めている事を示していた。

 ・・・・この様な中であっても4月下旬の薩軍は、政府軍の動きが緩やかな事もあって、鹿児島出発以来初めてまわずかな休息を取る事は出来た。


(*1):詳細は城東会戦の項、奇兵隊の項参照。
(*2):断首台の設置は薩軍が止めさせたとも言われているが、
   実際に設置されたかどうか、首がさらされた事の真偽に
   ついては明確な記録がなく不明。
(*3):その後強い要請(半ば強要に近い)によって、人吉隊に参
   加する旧相良藩士族たちが増えた。




政府軍の進軍
 5月1日〜9日。
 薩軍の休息もそう長くは続かなかった。城東会戦以後緩やかだった政府軍は5月に入って一気に動き始め熊本・鹿児島(宮崎)・大分に展開。人吉攻撃の中核・別道第2旅団(司令官:山田顕義少将)は、球磨盆地へ入る7街道から攻め込む作戦を採った。

 甲佐→五家荘→椎葉→不土野峠から江代を攻める、五家荘道。
 小川→五家荘→五木へから川辺川沿いに人吉を目指す、五木越道。
 八代→中村→仰烏帽子山から人吉へ向かう種山道。
 八代→肥後峠を越え、万江川沿いに進む万江越道。
 八代→球磨川沿い→国見峠から小川沿いに人吉へ出る、照岳道。
 八代・日奈久→球磨川北岸沿いに吉へ出る、球磨川道。
 佐敷→球磨川南岸沿いに進む、佐敷道。

 前衛隊が薩軍の守りが厚い球磨川道・佐敷道から攻め、薩軍・破竹・常山・鵬翼・正義の4隊と接触。球磨盆地へ入る街道はいずれも難所の連続で、大部隊が一気に通るには困難な地形である。薩軍は各街道沿いの要所に部隊を置き政府軍を待ちかまえた。政府軍は各地で敗退。鵬翼隊は大口の雷撃隊と連携し、佐敷へ攻め込んだ。

 しかし薩軍の攻勢もここまでだった。一度に大部隊は送れない状況下であっても、政府軍は兵と物資を絶え間なく動員出来る力があるが、薩軍は消耗を補う事が出来なかった。
 また精鋭・有能な指揮官を田原坂以来の戦いで失い、かつてほどの勢いがない。

 政府軍第2旅団が八代・水俣へ増援に入る頃から、政府軍優勢が色濃くなってくる。
5月12日頃の薩軍配備・政府軍展開概図
 5月12日〜25日。
 球磨盆地の北、甲佐・小川・八代から別道第2旅団主力部隊が人吉を目指し、五家荘道、五木越道、種山道、万江越道、照岳道を南下し始めた。

 球磨川道・佐敷道に重点を置く薩軍は、それら以上に険しい峠・渓谷がある北部5街道の南下をあまり想定していいなかった為、防衛線は弱かった。
 5月15日には破竹隊:赤塚源太郎指揮下の1個中隊が政府軍に投降するという事件も起きた

 12日、佐敷攻撃の鵬翼隊が敗退し守勢へ。
 13日、五木越道・宮園が陥落。
 16日、五木越道・竹の川が陥落
 19日、五木越道の要・頭地が陥落。
 22日、球磨川道・箙瀬が陥落。
 23日、五木越道・八原岳が陥落
 25日、球磨川道の要・神瀬(こうのせ)陥落。
    種山道・仰烏帽子岳が陥落。

 薩軍の敗退が続き、政府軍の人吉突入は避けられない空気が漂い始めた。

 それを物語る様に5月15日。桐野利秋は村田新八に人吉を任せ、人吉以後の展開の為に宮崎へ向かっている。薩軍の人吉防衛は、死守撃退から時間稼ぎへと変わっていった。
球磨川沿いの渓谷。球磨盆地へ入る街道はいずれも難所が多く、薩軍は地形を利用して防衛を図った。
軍本営だった事もある旧新宮寺家屋敷。当時の家屋は政府軍の攻撃で焼失。門は当時のもので、元は人吉城の相合門を移築したもの。西郷隆盛も一時滞在していた。



人吉陥落
5月25日〜の薩軍配備・政府軍展開概図
 5月30日、
 政府軍は人吉総攻撃を開始。この日五家荘道で奧球磨の要・江代が陥落。同日、鵬翼隊大隊長・淵辺高照が戦死。
 薩軍各隊は各地で抵抗するものの、有効な反撃が出来ぬまま各地で人吉へ後退、または孤立していった。

 この日。西郷隆盛が密かに宮崎へ移動する。

 6月1日。
 早朝、照岳道の山地中佐隊が人吉北西部郊外に到達。続いて五木越道の山川中佐隊が人吉北部・川辺川沿いから突入。後を追って各隊も続々突入。人吉城北約2Kmの村山台地(現JR人吉駅北側の丘陵)に砲台陣地を作り、薩軍本営がある球磨川南岸を砲撃。永国寺や人吉城など城下街は炎に 包まれた。
 村田新八が指揮する薩軍本隊約2000は応戦。人吉城二の丸に設けた砲台陣地から政府軍へ砲撃したが、政府軍の砲撃には太刀打ち出来ず破壊された。(*1)
 戦いは球磨川を挟んで繰り広げられたが、午後には薩軍の抵抗はやみ、堀切峠(加久藤峠)方面へ退いていった。

薩軍砲台のあった人吉城二の丸跡から見た人吉市街西部。
球磨川を挟んだ南北約2kmの地域で両軍の戦いは行われ、城下街は火に包まれた。


6月2日〜12日。
 薩軍本隊は、敗走する各隊を収容しつつ、大畑(おこば)を中心とした肥薩国境の山間部で、大口の雷撃隊と連携し戦線を構築。政府軍の南下をくい止めようと抗戦した。しかし政府軍の攻勢を止められず、堀切峠(加久藤峠)を越え、飯野(現宮崎県小林市)へ退いてゆく。

 薩軍本隊の撤退で戦場に取り残された部隊は、本隊に合流した隊もあったが、政府軍の勧告を受け入れ投降する隊が続出。特に6月4日には地元人吉隊が隊ごと投降した。
 徹底的に抵抗し戦い続けたこれまでの薩軍では考えられない現象であった。(*2)

 この後薩軍は何度か人吉奪回を試みたが、成功しなかった。

 薩軍は肥後から完全に撤退。主戦場は薩摩・大隅・日向へ・・・・・


(*1):薩軍の砲が射程距離が短いにも関わらず砲撃し、街を焼いた事について無策と云う向きもある。
   しかし人吉での戦闘が政府軍撃滅より薩軍が後退する“時間稼ぎ”の要素が濃かったので街を砲
   撃で焼き、火炎と煙で政府軍進軍と砲撃を妨害する意図があったとも思われる。

(*2):降伏投降した薩軍兵の中には、後に政府軍に組み込まれ従軍した者もいた。

※人吉の戦いに関しては球磨の部屋においても後日触れる予定です。


 人吉で薩軍はしばしの休息をとった。時には愛犬をつれた西郷隆盛の姿も見られたらしい。 
 人吉城の西にある永国寺に初め薩軍本営がおかれたが、戦いが激しくなると野戦病院となり、本営は移転。これは戦火を避けるためと言われている。他説として政府軍が薩軍の動静を探るため送り込んでいた間諜(スパイ)対策のひとつかとも云われれている。文献によると政府軍の「女間諜:お鶴」が捕縛された記録。西郷の影武者もいたという話が今に伝わっている。
 薩軍・政府軍共に情報・諜報戦も盛んだったのかも知れない。
                             永国寺の位置
永国寺 西南戦争の慰霊碑がある。
ゆうれい寺としても有名。




西南戦争ツーリングレポート
11
(10の続き) 4/19〜24(晴れ)
 球磨盆地2日目は八代へ。球磨川河口の荻原堤にある宮崎八郎戦死碑へ向かう。急流・球磨川もここまで来ると流れは穏やかで、戦闘があったとは思えない長閑な風景が広がる。
 戦いはおだやかな風景も凄惨なものに一変させる。戦争は双方に問題があって起こるのですが、西南戦争の場合は政府側の挑発が大きな要因とみられる点が多い。結果は日本史上最大の戦争までに拡大・・・たとえ時代の流れはあったとしても、あんまり人を追い込んだらイカンです。
 翌日はうひたつ氏は鹿児島へ資料収集に行く。satounoは2日間球磨で資料を集めた後鹿児島で合流。志布志からブルーハイウェイライン(現在フェリーさんふらわ)で大阪へ帰るのでした。(終わり)
大阪−志布志・さんふらわ

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