戦いは、
八代平野へ拡大!
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日奈久(洲口)上陸

 田原坂をなかなか突破できない状況打開のため、政府は新たな軍の編成に取りかかる。
 これが後に衝背軍と呼ばれる熊本南部沿岸から薩軍の背後を衝く部隊の始まりである。
 
 3月14日。京都の政府軍大本営は、別動第1旅団(当初、別動第2旅団と呼ばれていた)を編成。長崎へ集結させた。
 別動第1旅団は、歩兵4個大隊約2800と警視隊約1200。参軍には黒田清隆中将(*1)が任命され、長崎警備隊・高島鞆之助大佐を旅団司令長官(心得)(*2)とした。

 3月18日。
 高島大佐率いる歩兵2個大隊・警視隊からなる先鋒隊は、輸送船・扶桑、金川、玄海丸に搭乗。海軍参軍・伊藤祐麿少将の指揮する、軍艦・春日、鳳翔、孟春の護衛のもと長崎を出発。寄港地・天草へ向かった。

 3月19日早朝。
 天草諸島・獅子島を発した船団は、八代湾(不知火海)を北上。八代の南・日奈久を上陸地として定めたが、日奈久に薩軍駐留の情報をつかみ、日奈久の南にある洲口浜へ変更。沖合約1kmから、黒木為髓佐指揮のもと、舟艇によって上陸を開始した。

 日奈久は肥後南部・芦北地方の要港。薩軍も熊本沿岸への上陸を警戒していたが、守備隊の兵員はわずかで、日奈久の兵は約300名。迎撃に出たものの軍艦の砲撃と兵力の差に後退した。

 政府軍は一気に八代まで進軍し、球磨川を渡河。午後2時頃には早くも八代を占領した。
 夕方には船団に残っていた高島大佐と歩兵1個中隊・警視隊が球磨川河口に上陸。衝背軍は八代の光徳寺に本営を置き、補給・兵站の拠点とした。

なぜ薩軍の背後は
手薄だったのか?
 薩軍の熊本沿岸防衛線はあまりにも手薄だった。
 通常軍隊が進軍する際は、補給確保や警戒の為、それなりの部隊を後方にも駐留せておくものだが、薩軍の場合は少し事情が異なった。

 薩軍は[西郷政府尋問使節護衛]が目的の軍であったため、当初から長期の戦争を前提としての補給・兵站に対するの意識が希薄であった。 補給や後方警戒へ費やす事より、熊本城を速攻で陥落させれば、反政府の気運は全国へ飛び火し、政府は熊本どころではなくなる・・・・・このような読みがあったのだろう。

 しかし目算は大きくはずれ、薩軍は田原坂防衛に手一杯となり、とても背後への守りまで手が回らなくなってしまった。


(*1):旧薩摩藩士・明治維新の戊申戦争では函館攻略に征討軍参謀となり、旧幕府軍攻略で功績を挙
   げ、幕臣ら助名嘆願に尽力する。後の第二代内閣総理大臣。西南戦争当時は北海道開拓長官。
(*2):高島大佐は、衝背軍構想を西南戦争初期から意見具申していた。



進軍・衝背軍

 敗退が続く薩軍・阻止隊ではあったが、松橋では地の利を生かした戦術で衝背軍を待ち構えていた。
 薩軍は御船新田の水門を破壊。田畑に海水を入れて、高島少将(3月28日付昇進)率いる別動第1旅団進軍を阻止(*3)。また大雨によって一帯は泥地にもなっており、政府軍兵士を苦しめた。
 山田少将の別動第2旅団も、松橋の西側から側面攻略をねらったが、松橋北西部の丘陵に展開する薩軍の激しい攻撃を受け、容易に突入が出来なかった。

 進まぬ戦況に一時は撤退案も出たが、各旅団はねばり強く進軍。翌31日に別動第1旅団は干潮を利用して海岸沿いから一気も松橋へ突入。別動第2旅団も薩軍を破って突入。午後には松橋を陥落させた。

 4月1日には宇土まで一気に攻略。別動第3旅団も、婆裟神峠での薩軍の激しい攻撃を退け、堅志田まで進んでいる。

 宇土から熊本城までは、緑川を挟んでわずか10kmあまり。一気に熊本城へ進攻とを兵の意気はあがった。しかし参軍・黒田中将は補給体制不足と前線維持は困難として主力の参軍・山県有朋中将に訴え、急がず、緑川で薩軍・阻止隊と対峙。

 4月7日には別動第4旅団・約2600が宇土に上陸(旅団長・黒川道軌大佐)。さらに8日には熊本城から薩軍の包囲を突破した奥保鞏少佐隊(1個大隊相当)が衝背軍前線に到達。熊本城内の切迫した食料事情を報告した。(*4)衝背軍首脳は、このままでは熊本城での籠城は長く維持できないと判断。しかし。参軍・黒田中将は総攻撃を4月12日というかなり先の日程とした。
3/19〜 政府・衝背軍の動き概図
3/26〜 政府・衝背軍の動き概図


(*1)参軍・黒田中将は、「衝背軍は本軍と孤立しているので、軽々しく進軍してはまらない」として
  各隊の突出を戒めた。
(*2)八代海沿岸は干拓地が多く、海抜0m以下の土地が多かった。
(*3)征西戦記では「共ニ戦況ヲ告ゲ、敬愛ス、其快、想ウヘキナリ」と記録している。



薩軍の八代強襲

 田原坂の戦いが激化し、日奈久に衝背軍が上陸する直前。薩軍幹部・別府晋介、辺見十郎太、淵部高照らは兵員募集のため、密かに鹿児島へ戻っていた。

 3月26日には約1500名を集め、9・10番大隊(全12個小隊で構成)をつくり鹿児島を北上。衝背軍をさけて熊本南部の人吉に入り、武器弾薬を補充などをして、今後の動きを検討していた。

 3月31日。
 人吉へ熊本協同隊・宮崎八郎が、桐野利秋の特命を伝達の為到着。別府と辺見は手薄気味と情報が入っていた八代攻撃の準備に入る。
球磨川・荻原堤
辺見隊が渡河・退却した球磨川荻原堤付近
写真奥が球磨川上流(人吉方向)
 4月4日。
 薩軍約1000の兵は、球磨川沿いを進軍。坂本村の政府軍(別動第2旅団1個中隊)を敗走させ、八代市街まで約3Kmまで迫ったが、日没のため一旦後退した。

 4月6日。
 球磨川沿から八代市街へ突入。しかし別動第2旅団の増援部隊
(*1)の攻撃を受け、次第に後退。夕方には辺見隊は球磨川・荻原堤を渡河。別府隊と合流し人吉方面へ後退していった。
 この戦いで辺見隊に同行していた宮崎八郎が戦死している。


(*1)八代の政府軍は手薄だったが、4月5日夜には別動第2旅団から2個中隊が増強されていた。





宮崎八郎
  宮崎八郎
 日本三大代急流の一つ球磨川河口。国道3号線沿いの萩原堤に「宮崎八郎戦没ノ碑」が球磨川に向かって立っている。揮毫は司馬遼太郎によるもの。

 ルソーの「民約論」に感銘し、自由民権運動者として活躍した宮崎八郎は、西南戦争で民権党の同志と共に熊本協同隊を結成。隊の参謀長として薩軍・桐野利秋の傘下で戦った。日奈久に政府軍が上陸すると、宮崎は桐野の特命を伝えるため人吉へ向かい、人吉にいた別府・辺見隊に命を伝えた後、攻撃隊に同行して八代へ。
 初め優勢だった薩軍は政府軍の攻勢に圧され、辺見隊は萩原堤から球磨川を渡って後退を始めた。このとき指揮旗を振っていた宮崎は、銃撃を受け堤下の桑畑で息絶えたという。享年27歳。
 政府軍の戦死者回収の際、遺体から「民約論」が出てきたため、宮崎八郎と判明したという。



荻原堤の位置
宮崎八郎戦没ノ碑

西南戦争ツーリングレポ ート

(6の続き)4/17(曇)

 ブレーキトラブルで予定は変わったものの、熊本を発っていざ高瀬(玉名)へ。ところが高瀬大橋の手前で渋滞に・・・ようやくにして着いたものの、お目当ての西郷小兵衛戦死碑が見つからない。うひたつ氏が郵便の配達員さんに聞くがわからない。地元でも知られていないのか?
 あっ、西郷小兵衛とは、西郷隆盛の末の弟で、高瀬会戦で戦死しているんです。穏やかそうな姿の写真が残ってます。お兄さんの肖像画とは、かなり印象がちがいますね・・・(^_^;A
 高瀬の街をうひたつ氏とウロウロし、繁根木川に沿ったJR線路近くの小さな神社の奥を探すと、ひっそりとそれは、家と堤防の間にありました! 碑のまわりりは草も刈ってあってお花が備えてありました。地元の人がちゃんとしてくれているんですね。130年あまりも昔の人を今でも世話している事に少し感激。

 高瀬から熊本へ戻る道は、行きとは違って快適走行。一気に田原坂へ。(8へつづく・・・・)